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フリカツday60 先回りの子育て

おはようございます。
新しい一週間が始まりました。
明日からは土用にも入りますし、
今日は久々に冷えるそうなので、
体調に気をつけてお過ごしください。
わたしも、体調管理に気をつけて、
楽しく落ち着いて過ごしたいと想います。


さて、今日のフリカツでは
子育てがテーマでした。

フリカツメンバーは実はみんなママ。
「変わりたい!いや、変わるんだ!!」
という熱い想いを持った
ママたちが集まっています。

だからこそ、こんなに
すてきな場になっているんだろうなと
感じています。

そこで今日の話に上がっていたのは、
育児の中でも《先回りをしてしまう》
ということです。

例えば、
・子どもが着替えをしていて、
 その服装が寒そうだったとき、
 「寒いからこれも着なさい」と
 風邪をひかないように着替えし直させる。
・子どもが食事をしていて、
 こぼすからといって、
 「お皿はこう持つのよ」
 「これはスプーンで食べて」
 「こっちはフォークで食べるよ」
 と細かく教えてその通りにさせる。
・子どもが食べ過ぎそう…と予測して
 量を調整したり、
 「食べ過ぎちゃうんじゃない?」と
 予防するように言葉かけをする。

などなど、様々なことがあると想います。
(これ全て我が家の夫の例ですw)
うちの旦那さんは、すっごく細かい。
いや、細やかな人です。笑

子どもと公園に行ったときも、
新しい遊具に恐る恐るチャレンジしていると
いてもたってもいられずに、
「足はここに置いて、手はここで…」と
言葉かけをしている人です。

わたしの中では、
こういうのが《先回りの育児》なのかなと
捉えています。

これが良いとか悪いとか、
ほったらかしが良いとか悪いとか、
そういう話ではなくて。
どっちにも良さはある。

大前提として、
たくさんの言葉かけをしている
例に挙げたような見守り方も、
風邪をひいて苦しまないように…
食べ過ぎておなかを壊さないように…
怪我をしないように…
全てが子どもへの《愛》

一歩引いて、
寒かろうが子どもが寒いと感じて
着替えをするまで様子をみたり、
ちょっと食べ過ぎようが、
食べ過ぎたらどうなるのか
本人が体感する過程を見守ったり、
命に関わったり人のことを故意に傷つけたり
することがなければ見守るのも《愛》

どちらも子どもへの《愛》
表現が違うだけ。

子どもたちにどんな風に育ってほしいのか
      +
   今ここの現状はどうか

によって、
その時々で必要な言葉かけも、
事前の準備も、段取りも、
親の役目も変わってくるのかな
わたしは考えています。


さて、ここで、今日の話に戻りますが、
今日話してくれた仲間は
「先回りの育児を止めたいのに
 してしまう・・・」
ということを話してくれました。


今、どんなときにしているんだろう?

それはどうしてだろう?

本当は、
どんな自分の姿でありたいんだろう?

子どもたちには
どんな風に育ってほしいんだろう?

じゃあ、今することは、
今できることは何だろう?

そんなことをピロさんこと大野紘子さん
(まわりに愛される幸せ自律女性育成コーチ)

https://instagram.com/piro2piro2?igshid=YmMyMTA2M2Y=

に深掘りしてもらいながら
自分の本当に目指す姿、
そして、子どもの姿を明確に
していきました。

すると、見えてきたのは、
自分が親としてどう見られるか》
自分がふがいない親とみられたくない》
そんな氣持ちでした。

子どものことを想ってと感じていたけれど、

「子どもが寒そうな姿で外を歩くことで
 親として人からどう見られるんだろう?」

「子どもが食べ過ぎておなか痛くなったら
 親として人からなぜ予測できなかった?と
 問われるんじゃないだろうか?

「公園で子どもが怖がっていたら
 『手伝ってあげない冷たい親』と
 見られやしないだろうか。

という、世間体や人の目を気にして、
《親として》という固定概念、
そして、
「我が子が他人から叱られるのを
 見たくはない」
と同時に、
自分自身も人に謝ったり、
 迷惑をかけたりしたくない

という自己防衛反応もあったと
仲間は話していました。
(あくまでも一例です。決して全部がそうとは限りません)

きっと、誰にでもあると想うんです。
こんな氣持ち。

子どもを守っているようで
自分のことを世間から守っている。

批判を浴びないように…
迷惑を欠けないように…

分かります。
本当にその気持ちも分かります。


だけど、
これは、わたしの個人的な考えですが、
《迷惑》はかけてはいけないのでしょうか。

もちろん、生命に関わることだったり、
故意に人を身体も心も傷つけることは
絶対にしてはいけません。

だけれど、大人も子どもも
それぞれの集団で生活している中で、
《迷惑》をかけずに生きていく事って
できるのでしょうか。

今日、ある仲間も話してくれていましたが、
《迷惑》にも、人それぞれの
捉え方や設定がある
と想います。

時間が5分遅れたら迷惑と感じる人もいれば
30分遅れてもそう感じない人もいるように、
《迷惑》の言葉の設定は人それぞれだと
想うのです。

だからこそ、
人にはコミュニケーション能力が
携わっているのだと想います。

「それをされるとわたしは嫌だ。」
「じゃあ、止めるね。」

これを繰り返して人間関係を構築する。
これが学びであり、生きていく過程だと
感じています。

それと同じように、
子どもたちは、自分を知るために、
試行錯誤し、心も身体も成長の途中。
(大人のわたしもまだまだ途中。)

何事も経験!
お互い様!

と、自分の子どもも、
誰の子どもも、そして、大人も、
みんなを《お互い様》の視点で
一歩引いて暖かく見守れる
ような
自分であり続けたいし、
そんな社会を創っていきたいと
改めて感じさせてもらった時間でした。

それと同時に、
わたしもまだまだ発展途中。
伸びしろだらけ。
一緒に成長する!という思いで、
自分自身のことも暖かく見守って
自分を信頼し、応援し続けていきたいです。


++++++++++++++++++

最後までよんでいただき、
ありがとうございます。    EMI

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