『姑獲鳥の夏』との運命的な出会いについて

 こちらの文章は本にまつわるお話を題材にしたアンソロジーに寄稿した一文です。思春期真っ只中だった私の内面を大きく変えた一冊でした。私の文章を読んで、少しでも興味を惹かれたのなら、どうか一読してほしい。そんな一冊です。

【運命の一冊】
 私の運命の一冊との出会いの前に、私がどういう子供であったのかを先ずは説明させて欲しい。私は、物語を『聞く』のは好きだったが、活字を『読む』のがとても苦手な子供だった。耳から入ってくる情報を処理するのは比較的得意だったので、母親や先生が読んでくれる『読み聞かせ』はとても好きだったし、ちょっと難しいお話も好んで楽しく聞いていた。カットリック系の幼稚園に通っていたから、聖書に関する説話を聞くのも大好きで、母親に聖書を読んでくれとせがんでは、不思議な顔をされていたというちょっと変わった子供だった。だから、小学校に入学するまでは自分が活字を読むのが苦手だということに殆ど気付かないまま生活していた。
小学校に入学して特に苦労したのは教科書を読むことだった。授業に集中するのが難しくて居眠りしたり、教科書のページの端をいじり倒して破ったりしていた。当時、私が使っていた教科書は全てボロボロだった。声に出して『音読』するのは幾分マシだったのだが、文字を『黙読』するのが本当に苦手で、勉強が兎に角嫌いだった。年齢を重ねるにつれて、徐々にだけど授業には集中できるようになったし、教科書をビリビリにすることもなくなった。だけど、本を読むという行為に関しては苦手意識が残っていたので、図書室で本を借りて読む時間も何を読めば良いのか分からなくて、比較的好きだった盲導犬関連のお話や学校の怪談関連の本をちびちびと読んでいたものだ。
物語の世界に没入する瞬間というのはむしろ好きだったので、もっと本を読みたいという密かな願望は常にあった。でも本を、活字を、読めない自分が恥ずかしくてそれを胸の裡に押し込めていた幼少期だったように思う。そんな時、漫画という存在に出会った。漫画は絵が視覚情報としてダイレクトに入ってくるので、内容を理解しやすく物語の世界に没入しやすかった。私はあっという間に漫画という存在の虜になった。絵を描くのも好きだったから将来は漫画家になりたいなと淡い夢を抱きながら、私はどんどん漫画の世界に没入していった。漫画という存在に出会って、私はとても満ち足りていた。やっぱり物語を読むのは素敵だなと改めて思ったりもした。でもふとした瞬間に思うのだ。「物語を文字で読んで、その世界に入り込むのってどんな感じなのかな」と、だから私の中には小説を、活字を、読むことに対する憧れが常にあった。文字を読んで、その物語に入り込むという体験を求めていたのだと思う。何度もいうのだけれど、私は『物語』という概念は非常に好きだったからだ。そんな思いに囚われて、年に数回ほど小説を読もうとチャレンジを試みることがあった。けれど、中々上手くはいかなかった。一日で読み切れる量の文庫本を読了するために四苦八苦していたのだ。とても物語に没入しているとは言い難かった。やっぱり、私には小説を読むのは無理なのかなと頭の片隅で考えていた時に、運命の出会いは訪れた。思い返してみても本当に、唐突に。
高校生になった私は、電車通学を始めた。電車で片道30分くらいの学校に通っていたので、居眠り乗り過ごし防止に電車の中で本を読むようになった。駅の近くには本屋が数件あったので、本の入手には事欠かなかった。以前にも増して本屋に足を運ぶ回数が増えていった。目的は漫画を求めてだったけど、私は本屋という空間が大好きだったので、制服のまま本屋に寄り道するのがいつの間にか日課になっていた。本屋の店員さんとも自然と顔なじみになった。ささやかだけれど私にとっては青春の一コマだったのだ。高校生活にも少し慣れてきた或る夏の日、その日も私は夕飯の買い物をするついでに、大型スーパーに併設されている小さな本屋に立ち寄ったのだ。
私はいつものように漫画コーナーの新刊の棚を覗いた後、何気ない足取りでおすすめの小説を置いている棚の前に進んだ。その棚は店員おすすめの文庫本・ノベルス・ハードカバーがそれぞれ、表紙が見えるようにディスプレイされていた。その中にひと際、私の視線を奪う本が在った。それが後に、私の運命の一冊となる本だった。その本は小説で、所謂『ノベルス』といわれる本であった。当時の私は大変無知であったので『文庫本』『ノベルス』『ハードカバー』の違いすらも知らなかった。この本が『ノベルス』と呼ばれる本であることも後に知ったのだ。この本をきっかけにノベルスという存在を知ることになったことも、今となっては大変懐かしい思い出だ。
本の表紙には朱色で書かれた印象的なタイトルの文字と、悲壮な面持ちで赤子を抱えた女の絵が踊っていた。赤子を抱く女の顔はおどろおどろしく、それでいて何処か哀切漂う表情で描かれており、私はその表紙の、仄暗さが浮かび上がるような絵に目を奪われたのだ。吸い寄せられるようにして本を手に取った。本の裏表紙には本のあらすじではなくて複数の作家による、この小説を讃える紹介文が書かれていた。
「ミステリ・ルネッサンスはここに至って、最強のカードを引きあてた」
「日本的な家系の悲劇を剔出(てきしゅつ)する巧緻なプロット!」
「夏の日の目眩くひとときを、僕は生涯忘れないだろう」
なんとも心惹かれる文言だった。私は手に取った本の内容を確認もしないままに、レジへと急いだ。常にないことだったと思う。裡から湧き上がる衝動に、突き動かされていた。

運命の一冊の名は、京極夏彦著【姑獲鳥の夏】だった。

私はその日から、少しずつ、ゆっくりとこの本に眠る『物語』を紐解いていった。私は姑獲鳥の夏(以下姑獲鳥と略す)を読み進めていくうちに、この小説がミステリであること、物語の舞台が戦後の昭和であること、妖怪を題材にしていること、を知った。(姑獲鳥というのは妖怪の名前だったのだ)私は小説こそ読んでいなかったが、映画やドラマ、漫画で描かれる横溝正史先生のあのおどろおどろしくレトロな香りに包まれた、和洋折衷混在する昭和の描写や探偵金田一耕助のキャラクターが好きだったし、水木しげる先生のゲゲゲの鬼太郎が一等好きだったのだ。姑獲鳥にこれらのワードが登場した瞬間に「妖怪が出てくる!昭和が舞台のレトロなミステリ!探偵が出てくるんだ!」と心が躍ったものだ。それらのワードはおおよそ間違いではないのだが、後に良い意味で私の予想を大きく裏切ることになる。読了後そこが本当に面白いなと思った。そして、私はついに小説の世界に落とされることになる。私を小説の世界へ落とした運命のキャラクターとの出会いを、私はきっと生涯忘れないと思う。
【姑獲鳥の夏】は、この物語の軸となる二人のキャラクターの日常のワンシーンから始まる。姑獲鳥で重要な役割を果すことになる、この物語の語り部(姑獲鳥は彼の独白で構成されている)小説家「関口巽」と、物語の根幹を担うが決して主人公には成り得ない古本屋兼神主で、尚且つ拝み屋の「中禅寺秋彦こと京極堂」
彼らとの出会いが、私を小説の世界へと突き落としたのだ。私は姑獲鳥の冒頭で、関口巽と京極堂がだらだらと話すシーンに酷く心を奪われ、目が離せなくなった。夏の始まりの気怠い雰囲気の中で、二人がただ会話をしているだけのシーンに、とてもドキドキしたのだ。何故だか、見てはいけないものを覗いたような後ろめたい気分になったのをよく覚えている。
気が付くと私は関口巽視点で物語に入り込み、京極堂の蘊蓄談義に耳を傾けていた。この京極堂の蘊蓄談義はとても長くて回りくどいので、最初は読み進めるのが辛いかなと感じたのだけど(実際途中眠くなったりもした。でもこの蘊蓄談義は後に重要な伏線ともなるのだ。二重の衝撃である)少しずつ、京極堂の言霊に引き込まれるようにして私は関口巽に同化していった。文章は淀みなくスルスルと私の脳髄に入り込み、容易く理解することができた。感動だった。文章を読んで美しいと思ったのは初めてのことだった。活字を読むことで、こんなにも物語の世界に没入することができるなんて絵空事だと、信じていなかった私はその衝撃でくらくらと眩暈を覚えた。 「私にも、活字を読むことができるんだ。小説の世界に入り込むことができるんだ」と感極まっていたし、小説を読んでこんなにも感情が高ぶることが本当にあるのだなと、泣きそうになった。いや、多分泣いていたと思う。そして自分の一部が変容していくのを感じて、驚いたりもした。自分がこんなにも、深く思考することができるのだということも知った。【姑獲鳥の夏】はそれまで私が知らなかった、知り得なかった自身の一面を教えてくれるそんな物語なのだ。それくらい私にとっては衝撃的な出来事だった。
姑獲鳥には関口巽と京極堂を筆頭に個性豊かなキャラクターが多数登場する。二人の旧制高校時代の先輩で、探偵なのに推理しない、結論だけが『視える』天衣無縫な麗人こと榎木津礼二郎(私は関口の次に榎木津が好きなので、彼の初登場シーンでは関口巽と一緒になって、彼の艶やかで気怠い姿に見惚れていたものだ。とても魅力的な存在の彼は、言葉だけでは語り尽くせないと思う)や榎木津の幼馴染みで、関口巽の元部下の繊細暴走系刑事の木場修太郎(関口巽は戦時中、理系の大学生であったにも関わらず激戦地へ招集された上に、自身が率いる小隊が木場以外殲滅してしまったという不運の男なのだ。木場は関口を抱えて戦火の中逃避行することになるのだが、関口の回想シーンの二人の描写がとにかく秀逸なのだ)に、京極堂の妹にして有能な編集者である溌剌職業婦人の中禅寺敦子(彼女が居なかったら実は姑獲鳥は始まらなかったのだ。大変貴重な存在だし、私は彼女が好きだ)こんなにも魅力的で生き生きとしたキャラクターが揃っているミステリだというのに、既存のミステリに登場する所謂ところの『探偵』が存在しないところも姑獲鳥の魅力的なポイントのひとつだと思う。姑獲鳥に登場する、探偵榎木津礼二郎はミステリの中に登場する所謂ところの『探偵』とは役割が異なる。
榎木津は他者の過去が『視える』という特殊な体質の持ち主である。彼には他者の過去、つまりミステリでいうところの『謎』が視えるのだ。だから榎木津には『謎』を解く必然性が存在しない。彼にとってそれは謎でも何でもないからだ。彼は犯人と対面した瞬間に結論に達してしまうのだ。彼の前で『謎』は『謎』として機能することができない。だから彼は探偵だけど、推理をしない。する必要がないからだ。そしてその事実は彼にとって当たり前の現実で、私たち読者にそれを説明する必要もないし、義理もない。だってそれは彼にとって当たり前の日常だからだ。では彼がこの物語で担っている役割とは何なのだろうか?と私は拙い頭で考えた。そして彼の探偵であって『探偵』ではない。『謎』が視えるという側面は、犯人にとって「告発者」という役割を担っているのかもしれないと考えた。彼には犯人の隠したいものが『視える』からだ。榎木津礼二郎に関しては語り尽くせないくらい色々な思いがある。しかし、ネタバレになってしまうのでこれ以上は割愛する。こんな風にページをめくる度に、キャラクターたちの様々な一面が垣間見えて、目が離せない。息が吐けない。まるで自分も姑獲鳥の世界に居るような感覚さえあった。私も姑獲鳥の中で関口巽と奔走しているような、そんな気分だった。姑獲鳥は私にとって青春だし、忘れられないトラウマのような『初恋』なんだと、振り返ってみて思う。そして私はこの物語の中で、再び運命の出会いを果たすことになる。姑獲鳥の象徴的な存在である「久遠寺涼子」との出会いだ。
【姑獲鳥の夏】は関口巽が「二十箇月もの間子供を身籠っていることができると思うかい?」と京極堂に問い掛けるところから始まる『母親・赤ん坊・恋文・片恋・呪い・すれ違い』で構成される悲劇の物語だ。
京極堂は、二十箇月もの間子供を身籠り続けた女性、憑き物筋の家系である久遠寺家の呪い、密室から忽然と姿を消した男、消えた赤ん坊、といったこの物語を彩る悲劇を、謎を、「この世に不思議なことなど何もないのだよ、関口君」という自身の科白を証明するかのように、自身の操る言霊で、次々と解体していく。謎が謎ではなくなっていくその様は残酷だけれど、酷く美しいと思った。
「久遠寺涼子」は【姑獲鳥の夏】の悲劇を彩る久遠寺家の一員であり、榎木津が居を構える薔薇十字探偵社の依頼人でもある。久遠寺家の悲劇に翻弄される彼女は、私の理想を体現したような女性だった。彼女は作中で『無彩色の女』と評されているのだが、私は活字の羅列で表現された彼女のアンバランスな魅力に、一瞬で憑りつかれてしまった。モノクロオムの印画紙に焼き付けられたような美しい女。私はその美しい女を頭の中で何度も何度も反芻し、思い描いた。それはまさに、初恋のような衝動だったと思う。自分でも何故なのか分からないほどに、強烈に惹き付けられたのだ。彼女は私にとって、紛れもなく『運命の女性』なのである。それは何年経っても鮮やかに思い出せるほどに、私の大切な記憶の一部となった。
物語は結末に向かって留まることを知らない。予め用意されていた結末はページをめくってしまえば、終わってしまう。私はそれを分かっていながらも、ページをめくる手を止めることができなかった。「終わって欲しくない。でも続きが読みたい」というジレンマを抱えながら、どんどんページをめくってゆく。初めての体験だった。結末に至るまでの淀みない文章の流れ、文章が放つ言霊の力、何かに操られるようにして、私は読了を迎えた。物語は関口巽の独白で締められるのだが、私は読了の瞬間、彼のように大きな溜め息を吐いて放心した。そして裏表紙に書かれていた文章を思い出す。『姑獲鳥の夏を読んだこの夏の日の目眩くひとときを、僕は生涯忘れないだろう。/綾辻行人(敬称略)』まさしくその通りだと、私はそう思ったのだ。
あんなにも活字を読むことが苦手で、あんなにも活字の世界に没入することに焦がれていた私は、その望みを【姑獲鳥の夏】によってようやく叶えることができたのだ。姑獲鳥は私にとって、運命の一冊であり、忘れられない一冊であり、私の一部を作り変えた作品であり、私の青春なのだ。余談となるが、【姑獲鳥の夏】は京極夏彦先生のデビュー作であり、百鬼夜行シリーズ第一作目でもある。私は姑獲鳥を読了したその足で、京極先生の既刊を全て収集した。そしてそれを皮切りに様々なミステリを読んだ。ミステリに留まらず、色んなジャンルの本に触れた。全て【姑獲鳥の夏】と出会わなかったら、出会えなかった本たちだ。色々な本を読めて本当に幸せだと思う。今も私の手にはあの日、運命の出会いを果たしたボロボロの【姑獲鳥の夏】が在る。本を手に取り匂いを嗅ぐと、古い紙の饐えたような匂いがした。それだけの時間が経ったんだなと実感する。でも本のページをめくれば、あの夏の日の記憶が鮮やかに蘇るのだ。(了)

あした何読む?〜本が好きな人が好きにする話〜

【姑獲鳥の夏】 京極 夏彦 著

姑獲鳥の夏 (講談社ノベルス) https://www.amazon.co.jp/dp/4061817981/ref=cm_sw_r_cp_api_i_48UlFbQ44PJ94


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