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脚本論から見る「お笑い」

基本苦手なものばかりですが、
特にお笑いが苦手です。

お笑い番組やバラエティ番組、
あるいは、
お笑い芸人そのもの。

理由としては、
単に人気者が嫌いで、
そうした人たちを眺めていると、
自然と涙が溢れてきて、
精神衛生上よくないからなのですが、

それはともかく、
自分は普段、
脚本やストーリーを分析しているので、
そうした観点からも、
なぜお笑いが苦手なのか、
を書いていきたいと思います。





・ツッコミがいらない

海外目線から日本のお笑いを取り上げた、
以下の記事を、
前に読んだことがあって、

アメリカのスタンダップコメディとの比較で、
日本のボケとツッコミについて論じられているのですが、

なぜお笑いが苦手なのか、
その理由の一端が見えた気がします。

アメリカで主流のスタンダップコメディは、
日本でいうピン芸人のことで、
一人で舞台に立ち、
トークをし、
客を笑わせるスタイルです。

このスタイルはコメディ映画、
あるいは、
コメディタッチで描かれる映画と同じです。

ある創作関連の本の中で、
「インスタント沼」を撮った三木監督が、
観客のツッコミを想定しながら、
ストーリーを書いている、
といったことを話していましたが、

それと同様に、
スタンダップコメディも、
舞台上にツッコミ役が存在せず、
客自身が面白ポイントに突っ込みを入れることで、
笑いが起きるように設計されており、
その点が、
映画的なスタイルといえます。


それに対して、
ボケとツッコミは、
例外はあるかもしれませんが、
基本的には、 
客に代わって、
面白ポイントをツッコミが指摘するスタイルです。

そのスタイルから連想するのが、
活弁です。

ご存じのように、
活弁とは無声映画に、
セリフや説明を付け加える弁士のことであり、 

客のサポート役として、
面白ポイントを教えてくれる点において、
お笑いのツッコミと共通しています。

そうしたスタイルは、
よくいえば親切で、
悪くいえば蛇足であり、

自分などは、
もともと無声映画のストーリーは、
無声であることを前提に作られており、
それで完璧なストーリーのはずなのに、
なぜわざわざ音声を足すのか、
と考えてしまうのですが、

ただ、
コメディドラマである、
「Mr.ビーン」がヒットしたのは、
映像に笑い声を被せ、
面白ポイントを明確にしたから、
ともいわれているので、
そのあたりの是非については、
何ともいえません。

何にせよ、
ボケとツッコミのスタイルは、
活弁や笑い声のように、
客のサポート役が舞台上に存在し、
舞台上で笑いが完結するため、
同じお笑いでも、
客一人ひとりとマンツーマンで対話し、
客に突っ込ませるスタンダップコメディとは、
本質が異なります。

そして自分の場合、
サポート役を蛇足と捉えてしまうため、
ボケとツッコミのお笑いが苦手なのだ、
と考えた次第です。




・距離感が近い

バラエティ番組の話になりますが、
お茶の間との距離感の近さが苦手です。

たとえば、
人気お笑い芸人が司会を務める、
昼の情報バラエティ番組などは、
視聴者とは遠いところにいる人気者たちが、
視聴者の目線に寄り添ってくれる、
という、
馴れ合いの気持ちよさで、
番組が成り立っているように思います。

自分は歌手の清春が好きなのですが、
清春のライブを映画とするなら、
清春との握手会がバラエティです。

清春との触れ合いは、
確かに最高ですが、
それはタレントの魅力であり、
清春の楽曲、
つまり、
コンテンツの質とは、
まったく別物です。

もちろん番組にもよりますが、
そうしたタレントパワーに依存した、
タレント本位のコンテンツは、
属性的には水商売であり、
コンテンツの質としてみると、
決して高いものにはなりえず、

自分としては、
人気者と触れ合うのではなく、
それよりも、
人気者にはスクリーンの中だけで輝いてもらい、
それを遠くから眺めていたい、
と思うのです。


もう一つ、
距離感に関連して、
バラエティで苦手なのが、
演出か否かの、
ボーダーラインを曖昧にしている点です。

多くの場合、
バラエティには台本があるため、
本来フィクションなのですが、
リアルであるという体裁のもと、
番組が進行するため、

フィクションとリアルとの距離感が、
バラエティにはありません。

今でこそ自分は現実アレルギーであり、
すべてのリアルから目を背けたいので、
ドキュメンタリーなどは一切見ませんが、
昔はリアル志向であり、
リアルだから価値がある、
と考えていた時期もあります。

そうした視聴者の、
リアルだからこそ面白く感じる、
という心理に頼り、
リアルを装って作られているのが、
バラエティなのです。

自分としては、
リアルの価値については否定しませんが、
フィクションである限り、
リアルから遠いけど、
リアリティのあるものが、
見たいと思うのです。

しかしそのように、
フィクションをフィクションと割り切り、
リアルと切り離してしまうと、
魅力の多くが失われてしまうのが、
バラエティの宿命なのでしょう。


ただし、
この手のやり方は映画にもあり、

「ブレアウィッチプロジェクト」を始めとするモキュメンタリーがそうです。

あるいは、
「ロレンツォのオイル」や「グリーンブック」など、
実話に基づく映画もそうです。

これらの作品は、
リアルであることの価値に頼っている、
という意味では、
バラエティと同じといえるかもしれません。



・テーマがない

コントの話になりますが、
脚本の文脈でいう「コントみたい」は、
ネガティブな意味しか持ちません。

一般論と断った上で、
映画とコントの違いは、
テーマの有無です。
 
映画にはテーマがありますが、
コントにはそれがありません。

この違いを構造面から捉えるなら、

映画には起承転結があるが、
コントは前半部分の起承しかない、

といえるかと思います。

もちろんテーマのない映画もありますし、
起承転結をもったコントもあるかと思いますので、
繰り返すように、
あくまで傾向としての話です。

かなり前に、
コント番組で、
アレルギーだかアトピーだかを揶揄したコントがあって、
問題になったことがありますが、

前述したように、
コントのストーリーは起承しかないので、
アレルギーの人間をいじっておわり、
という形になっているのが、
その原因です。

もし映画であれば、
前半(起承)でアレルギーをいじる描写があっても、
それは後半(転結)のための前振りであり、
後半では、
アレルギーを持つ者の生きづらさ、
といった、
テーマに沿ったストーリーが語られる、
そうした作りになります。

この点(ストーリーの型)において、
映画とコントのストーリーとでは、
はっきり優劣があり、

映画のストーリーを見慣れてしまうと、
コントでは物足りなく感じます。

ただし、
起承転結のストーリーならいいのか、
という問題もあります。

映画には感動ポルノと呼ばれる作品がありますが、
そうした作品は、
前述したアレルギーいじりのコントと、
レベル的には大差ないような気がしますし、

何より、
悪意を持った書き手なら、
前半のアレルギーいじりが目的で、
後半のテーマはいじりのための手段、
というように、
起承転結のストーリーを悪用することも可能です。

しかしながら、
やはり起承転結は型として優秀であり、
コメディ映画という、
その型を持っている作品がある以上、
起承だけのコントには触手が伸びないのが、
正直なところです。



・松本監督作を振り返る

近年は映画やテレビドラマに進出する芸人が多く、
お笑い界のレジェンド、
ダウンタウンの松本さんもその一人でした。

松本監督の映画からは、
青臭いのに熟れているみかんのような、
二律背反の、
アンバランスさを感じます。

推測するに、
笑いに関する能力は卓抜している一方で、
コントをやってきた人のため、
ストーリーの基本を学んでいないことが、
その原因なのではないでしょうか。

松本さんはその昔、
アメリカ的な、
万人に通じる笑いを、
60点といっています。

松本さんはHSPといわれており、
持ち前の繊細さによって、
細かいところを追求していくのが、
松本さんの笑いの真骨頂であり、
松本さんにとって満点の笑いなのかと思います。

お話を語る気がない、アイディアとディティールを細かくしていくっていう人なんだからやっぱりね、資質としては映画向きじゃあないんだよね。

https://fc0373.hatenablog.com/entry/2021/09/26/135705#%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC-%E5%AE%87%E5%A4%9A%E4%B8%B8 

上記は松本監督作に対する、
宇多丸先生の評ですが、
その通りとは思いつつ、

自分としては、
松本さんも認めたナンシー関が、
とんねるずに対して評した、

体育会系のノリをお笑いに持ち込んで成功した人が、
スポーツ番組をやるヤバさ

松本映画に対しては、
この言葉が思い浮かびます。

自分はお笑いに詳しくないので、
あくまで印象論になりますが、
松本さんの笑いに対するイメージの一つに、
点と線の笑いがあります。

昔テレビでダウンタウンのトーク番組をよく見ていた頃、
視聴者の意表を突くように、
現在の話と過去の話を結びつけ、
笑いを取る、
松本さんに対しては、
そんなイメージがあるのですが、

それはまさに、
ストーリーでいう伏線と回収のことで、
それをぶっつけ本番の、
アドリブでやるところに、
そのすごさがあると思います。

そうした印象が残っていて、
松本さんの笑いは、
本人が意識していたにしろ、
そうでないにろ、
ストーリー性を持っているという意味で、
映画的だな、
と思ったのですが、

話を戻すと、
とんねるずが体育会系のノリをお笑いに持ち込んだことで、
成功したのであれば、
松本さんはストーリー性をお笑いに持ち込み、
成功した人であり、
したがって、
松本さんが映画を作ることは、
本場でストーリーを作ることを意味し、

カレーで例えれば、
ラーメン屋のカレーはおいしく感じますが、
カレー屋では埋もれてしまう、
松本映画とは、
つまるところ、
そうしたものなのではないか、
と自分は考えるのです。



最後に、
観た当時にメモしていた、
松本作品全四作の感想を載せておきます。

・一作目「大日本人」

ラストの着ぐるみシーンは
映画上の演出なのか
テレビ撮影だった、の落ちなのか
どちらとも取れる
そういう仕掛けだと思った

省略法を多用していたが
そのテクニックを覚えたての人が
得意がって使っているようにしかみえない

・二作目「しんぼる」

創作初心者がよく書く
観念的な話だと思った

ところどころ熟れてもいる
書き手は熟れてくると
一つの作品の中に
二つのストーリーを作りたがる

・三作目「さや侍」

1日1ネタ、という設定
段取り臭さは、
るろ剣の十本刀との対決を思い出す

予定調和に傾いており
書き手がストーリーを
仕切っていることに対する苦痛

ドラマが書けていないので、
養護する気はないが、
竹原のシーン、
あれは笑うとこであって感動するところではない、
その意味で観客のレベルを嘆くのもわからなくもない

・四作目「R100」

作ったことがある人にしかわからない
メタ表現が多い

掛け軸などでは
達人の筆ほど
めためたしてくるが

CGによる不可解な演出は
書き手がCGの使用にハマってしまった
という
笑いなのだろうか

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