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「ショーシャンクの空に」に見るナレーション過多

お疲れさまです。

先日「ショーシャンクの空に」を再観賞しました。

本作は名作の誉れ高い映画であり、
自分も良作であることは否定しませんが、
一方で、
映画史上ナンバー1みたいな扱いを受けていることには首をかしげます。

同じフランクダラボンの監督作なら、 
「グリーンマイル」のほうがストーリーが洗練されていますし、

同じ脱獄モノの「大脱走」より上に位置する作品とも思えない。

「ショーシャンクの空に」は過大評価では?

以前からそう思っているのですが、
その理由となるのが、
本作におけるナレーションの使われ方です。








https://filmarks.com/movies/19119

「ショーシャンクの空に」のストーリーには語り部が存在します。

冤罪で捕まった主人公アンディの刑務所内での様子を、
長年刑務所で暮らすレッドが冷徹に観察し、
語り部としてその見聞を観客に伝える、
という、
小説によく見られる形式を取っており、

詳しくは後述しますが、
ストーリー全体にわたってレッドのナレーション(語り)が挿入される作りになっています。

脚本教室にいきますと、
基本事項の一つとして、
ナレーションを使ってはならない、
と教えられます。

ナレーションがなぜNGかといえば、
説明セリフの一種だからです。

説明セリフとはいうまでもなく、
たとえば、
主人公はヒロインに恋をしている、
という情報を示したい場合、
「俺、彼女に恋してるんだ」
とセリフでそのまま伝えることです。

表現なるものは、
示したい情報を観客にうまく伝える力のことですので、
上記したようなセリフは、
表現ではなく、
単に説明にすぎません。

したがって、
ナレーションの場合も同様で、
「彼は彼女に恋をしていた」
と入れたとしても、
それは説明の域を出ません。

ナレーション(語り)に限らず、
モノローグ(心の声)でも同じであり、

たとえばモノローグで、
「あー好きだ」
と呟いた場合も、
表現として未熟なため、
やはり説明として捉えられてしまうのです。

一方で、
小説の場合は、
ナレーションやモノローグが成立する事実があります。

ナレーションは小説でいう地の文のことですので、
小説にはなくてはならないものですし、
あるいは漫画でも、
頻繁にモノローグが使われており、
小説や漫画の媒体では、
ナレーションやモノローグが欠点になりません。

このことからわかるのは、
ナレーションやモノローグ自体がダメなわけではなく、
映像を前提とした媒体でそれらの手法を使うからダメ、
ということです。

たとえば、
Twitterの媒体では、
内容を140文字以内で簡潔に表した短文が、
いいツイート、
という風潮があるかと思います。
(今は長文機能がついているので、
もう当てはまらないかもしれませんが)

その風潮のもとで、
数ツイートにわたる長文を書いた場合、
内容以前の問題として、
「(Twitterなんだから)それを140字以内で伝えてくれ」
と相手からのツッコミが入ってしまうのは避けられません。

つまり、
Twitterが短文を前提とした媒体である以上、
長文それ自体が悪いわけではありませんが、
Twitterで長文を書いてしまうと、
媒体に相応しくない表現方法ゆえに、
その内容が相手に伝わることはないのです。

翻って、
映画やテレビドラマの媒体では、
映像表現が何よりもモノをいいます。

言葉を使わずに、
いかに映像で表すか?

がまず念頭にあり、
そういった映像へと向かっていく意識が、
作り手、客に関わらず、
絶えず働いているのが、
映像媒体の性質といえます。

したがって、
前述した「彼は彼女に恋をしていた」といったナレーションを使ってしまうと、
「それを映像で伝えてくれ」、
と客からいちいちツッコミが入ることになり、

それがために、
小説や漫画では成立するナレーションやモノローグが、
映像においては役に立たないのです。


では、
映像の媒体において、
ナレーションやモノローグが絶対ダメかというと、
そんなことはありません。

映画を長年分析してきてわかったのは、
どうやら作り手と客のあいだには、
ナレーションの使い方に関して、
暗黙の了解があるらしいことです。

具体的には、
ストーリー冒頭においてです。

作り手は観客に対して、
これから見せるストーリーを円滑に立ち上げたいので、
その間(自分の肌感覚では冒頭10分くらい)はナレーションやモノローグを使いますが、
あくまで使うのはセットアップが終わるまでなので、
それまでは我慢してください、
と約束し、
それに対して観客は、
10分くらいならば、
と応じる、
そうした暗黙の約束がある気がします。

はっきりとした根拠はなく、
あくまで自分の推測ではありますが、
ストーリー冒頭の時間帯に限っては、
映画でもナレーションやモノローグが許されるのです。

もちろん、
冒頭以外でも、
作中でたまにナレーションを挟んだり、
ラストをナレーションで締めたり、
それくらいなら問題ありませんが、

冒頭からナレーションやモノローグが脈々と続き、
10分、15分と過ぎていった場合は、
観客としては、
いつまで続くんだ?
と思い始め、
作り手への信頼性に疑念が生じてしまいます。

イギリス映画「花嫁のパパ」が、
実際にそういったケースに陥っています。

花嫁の父親の一人称で進むこのストーリーは、
冒頭からラストまで、
モノローグの垂れ流しであり、
開始20分あたりから、
観客(僕)の信頼を完全に失っています。

あるいは、
近年でいえば「花束みたいな恋をした」。

(この作品は意図的にそうしている気がしますが、)
暗黙の了解を無視し、
全体を通してモノローグが使われています。

ナレーションやモノローグは、
子守歌のようなものだと、
自分は思います。

ストーリーを睡眠に例えると、
ナレーションは子守歌であり、
円滑に睡眠導入を行うための役割です。

赤ちゃんが眠ったら、
ベビーシッターはその眠りを妨げぬよう静かに歌声をとめる、
それがスマートな関係性ではないでしょうか。


話を「ショーシャンクの空に」に戻して、
記事のタイトルにもしましたが、
本作はナレーションが多用されています。

どれくらい多いのか、
ざっと数えてみたのですが、
大体5分に1回、
ナレーションパートが訪れます。

作中にナレーションが入る回数は計41回、
分数でいえば約20分がナレーションに費やされており、
実にストーリー全体の1/7をナレーションが占めています。

ナレーションが入る回数/再生時間 

5回/0分~15分
4回/15分~30分
6回/45分~60分
4回/60分~75分
4回/75分~90分
7回/90分~105分
0回/105分~120分
11回/120分~エンドロール

計41回(約20分)

ナレーションの嵐がやっとやむのが、
終盤105分~120分の15分間であり、
それ以外は全体を通して、
絶え間なくナレーションが続いており、

先ほどの子守歌の例でいえば、
赤ちゃん、寝付けません。

たとえば、
レッドが最初にアンディを見かけたシーンでは、
以下のナレーションが入ります。

レッド(ナレーション)「アンディを最初に見た時には、大したヤツだと思わなかったと認めなければならない。風に吹き飛ばされそうな平凡な男に見えた。それが、私のこの男への最初の印象だ」

https://www.eiga-square.jp/title/the_shawshank_redemption/quotes/1

あるいは、
別のシーンでのナレーション。

レッド(ナレーション)「みんながアンディをお高く止まっていると言っている理由が分かった。物静かで、歩き方も話し方もここでは普通じゃなかった。公園を散歩しているかのように歩き、心配事などないかのようでもあり、世界中を憂いているかのようでもあった。まるで見えないコートで、刑務所から自分を守っているかのようだ。正直に言うと、おれは最初からアンディのことが気に入った」

 https://www.eiga-square.jp/title/the_shawshank_redemption/quotes/6 

こんな具合で、
小説の地の文そのものである、
レッドの心情を表したナレーションが、
作中で繰り返されるのです。

もちろんストーリー内容は、
他の名作と比べても、
決して見劣りするようなものではないと、
それは自分も感じるのですが、

媒体に相応しい表現方法、
の観点から見たときに、
ナレーションが20分も入る、
こうした小説的な映画が、
数多ある名作を押しのけて、
なぜ最高傑作なのか、
というのが偽らざる思いです。

ご存知の方も多いように、
本作は評論家から絶大な評価を受けており、

Wikipediaを見てもわかりますが、
DHCくらい数々の栄冠を手にしています。
(たとえが古い)

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%81%AE%E7%A9%BA%E3%81%AB

ただ思うのは、
評論家や批評家は映画には詳しいかもしれませんが、
脚本(ストーリー)の専門家ではない、
ということです。

自分としては、
本作の段階では、
フランクダラボンの脚本術の腕前はまだ未完成であり、
その後、
脚本術がピークに達し、
その才能が完全な形で花開いたのが、
「グリーンマイル」なのではないか、
そのような認識をしています。



付け加えますと、
本作を注意深くみたとき、
小説的表現であるナレーションが、
傷になっていないといえばなっていません。
(「花束みたいな恋をした」を見たときも同じことを思いましたが)

たとえば、
アンディが図書館に立てこもって大音量でレコードを流すシーン。

以下のナレーションが入りますが、

レッド(ナレーション)「いまでも、俺はこの2人のイタリア人の女が何のことを歌っていたのか知らないし、知りたいとも思わない。知らない方がいいこともある。言葉では表現できないような美しいことについて歌っており、それゆえに心を締めつけるのだと思いたい。歌声は、高く遠く舞い上がった。まるで美しい鳥がオリの中に飛んできて、塀を消し去ってくれたかのようだった。その短い間、ショーシャンクの全員が自由を感じていた」

https://www.eiga-square.jp/title/the_shawshank_redemption/quotes/13

仮にこのナレーションがなくとも、
ナレーションの文面から伝わる情感が、
映像(を主体としたストーリー)のみで伝わる作りになっており、

ナレーションですべてを説明している、
未熟な作品とは違い、
本作の場合は、
映像表現をきっちりとこなした上で、
ダメ押しでナレーションを入れています。

つまり、
シーンの説明というよりは、
シーンの補足の意味合いで、
ナレーションを使っている感じを受けます。

連想したのが、
サイレント映画における活弁です。

弁士は完成済みのストーリーにセリフを添えますが、
その時に問われるのが、
ストーリーが生み出す行間を損なわない形で、
適切なタイミング、
適切な内容のセリフを挟み込む能力です。

そもそもサイレント映画は、
無声で見れるように作られていますので、
セリフの添え方を一歩間違えれば蛇足になります。

あるいは、
バラエティ番組のテロップも、
活弁と同じような能力を試されている気がします。

そうした能力が、
本作では秀でているために、
ナレーションが傷にはなっておらず、

その意味において、
ストーリーが下手くそで、
ナレーションに頼っているパターンや、
あるいは、
ナレーションが蛇足であるパターン、
そういった欠点を持った凡百の映画とは、
一線を画した作品であることは確かといえます。

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