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群像劇にまつわる誤謬

ストーリーの誤謬の一つに、
「群像劇は構成が巧み」、 
があります。

https://note.com/furaidopoteto/n/n3cb2de4cc1a8

先ほどあげた上の記事に関連しますが、
キャラクター先行型ストーリーの典型例として、
群像劇をあげないわけにはいきません。


本題に入る前に、
まず群像劇の定義について。

群像劇は以下の二種類に大別できます。

・複数の主人公が一緒に行動するタイプ
・複数の主人公が単独行動するタイプ

主人公が複数いる点は共通していますが、
行動を共にするかどうかに違いがあります。

前者は一つの事件なり出来事なりに直面した複数の主人公が行動を共にするタイプのストーリーで、

代表的な作品に「七人の侍」や「ポセイドンアドベンチャー」があります。

後者は「グランドホテル形式」と呼ばれるもので、
ホテルや学校など同じ舞台に集った複数の主人公が、絡み合うことなくそれぞれ単独で行動するタイプのストーリー。

代表的な作品として「グランドホテル」のほか、「アメリカングラフティ」、「どん底」などがあります。

一般的に群像劇といえば、
後者を連想される方が多いかと思います。

この記事においても、 
後者の定義を指して群像劇とします。



ストーリーは、
主にキャラクターと構成によって成り立ち、
相反するその両者が折り合うことによって、
作られていきますが、

群像劇というのは、
折り合いを一切つけることなく、
キャラクターを最優先させた果てに到達するスタイルなのでは、
と最近考えています。

理由としては、
群像劇の構成が、
通常の構成とは対極のところに位置しているからです。 

一般的なストーリーというのは、
・主人公が抱える問題、
・ヒロイン(乃至パートナー)が抱える問題、
・二人が直面する事件、
がまずあって、
・それらの問題と事件の解決
が目的になっています。

したがって、
その場合の構成力というのは、
問題と事件をどう絡ませるか、
そして絡み合ったものをいかにして紐解く(=解決する)か、
その巧さをいいます。

縄でたとえると、
何本か用意した縄を、
ストーリーを進めながら、
ゴルディアスの結び目のごとく編んでいき、クライマックスで、
ガチガチになった結び目を鮮やかに解く、
その一連の行程において、
縄をどう編むか、
そしてどう解くか、
そのうまい下手で、
構成力が決まるのです。

一方で、
群像劇というのは、

まず、用意した縄を編むことをしません。

何本か縄を並べた状態のままストーリーが進んでいき、
クライマックスで、
お決まりのパターンである絡み合うことのなかったキャラ同士がリンクする、
という手法をもって、
ようやく縄を結ぶ、
といった具合です。

通常の構成とは真逆のことをしていて、

この構成のどこに、
巧みさがあるのだろう、
と思います。

結局、複数の主人公に単独行動させるのは、
キャラクターを優先させた結果であり、
構成を優先させようとすれば、
群像劇のスタイルにはならない(と僕は考えています)。



「群像劇は構成が巧み」、
そういった誤解がなぜ生まれるのかを考えると、

見た目がそれっぽいから、
という一言に尽きると思います。

白衣を着た人間が医療従事者にしか見えないのと同じで、
群像劇もその感覚に近い。

群像劇は、
主人公とヒロインがメインで描かれる一般的なストーリーとは、
明らかにストーリーの組み立て方が違うので、
自然と構成が目立ちます。
 
再び縄のたとえを出しますが、
バラバラの縄を並べて、
最後に一本にまとめるという構成は、
誰の目にもよくわかると思います。

一方で、
一般的なストーリーの場合、
この結び方がすごいとか、
この解き方が半端ないとかは、
その道をかじった人でないと理解できないので、
そもそも構成として認識されることはほぼありません。

つまり、
ここまで書いてきたように、
一見構成主体のストーリーに思えるが、
その実、キャラクター主体のストーリー、
それが群像劇の本質なのではと、
僕は思います。


ひとつ補足しますと、
群像劇だから構成力がないとは限りません。

しばらく前に、
群像劇の手法を用いた「怒り」をみましたが、

ある殺人者の存在を示した上で、
その犯人の特徴を持った三人の男たちを描く、
という構成の工夫によって、
犯人は誰なのか?という焦点をストーリーに発生させており、
見応えがありました。

「怒り」のように構成が巧みな群像劇も、
確かに存在します。


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