[長編小説]あいのかたち 〜再会〜
ためらいがちにしのびこんでくる手。
やさしく絡められる指を、そっと握り返す。
自然と体を寄せ合い、私の頭を彼の腕にゆっくりと預ける。
そう、これだ。
この安らぎ。
もう長いこと忘れていた、肌の温もりと、揺るぎない安心感。
この人なら大丈夫かもしれない。
全てを受け止めてくれるかもしれない。
再会して数時間しかたっていないのに、私たちはまるで、ずっと恋人同士だったように寄り添い、夜の街を歩いていた。
◇◇◇
濱口翔吾と再会したのは、夏を忘れられない太陽が照りつける、10月の暑い日。
私は取材の帰り道、これから書く原稿の内容に頭を巡らせながら、家への近道である公園を足早に横切っていた。
今日の取材は都内で人気のあるカフェ。店内には客席が2テーブルしかない小さなカフェだが、休日はいつも店の外に長い行列ができている。このお店は、お客さんが店主に置き手紙をするという不思議な習慣があり、美味しいコーヒーと丁寧に作られた、だけれど飾らないシンプルなデザートに、お客さんたちが癒されて帰っていく不思議な雰囲気をもったお店。
頭の中でぐるぐると、構成やタイトルを考えながら、ふと誰かの視線を感じて、公園のベンチに目を向けた。
白いワイシャツ、カーキ色のチノパン、先のとがった茶色の革靴。
サラリーマンというにはちょっとラフな格好をしたその男性と、目が合う。
目を逸らそうとしたが、相手の強い視線に、思わず足を止める。
「みやまえさん。みやまえ、ゆうこさんですよね」
結婚時代の姓で呼ばれて、どきり、と心臓が音をたてる。
離婚してもうだいぶ経つのに、その姓を知っているとは、どういう関係の人だろうか・・・。
そう訝しく思いながらも、男性の視線も、声音もなぜか嫌な感じがしない。
「・・・今は、もう姓が違いますけど。どちらさまですか。」
私にしては、素直に自分の気持ちを言葉にする。
男性は驚いたように少し目を見開き、話しかけようとして、一旦口を閉じる。
どのくらいの沈黙が経っただろうか。先に口を開いたのは彼の方だった。
「濱口翔吾といいます。そうか、あいつ、ゆうこさんとはもう・・・。」
はまぐち、しょうご。
頭の中で記憶の回路をフル稼働させて、引き出しをあっちこっち開く。
濱口翔吾。あ。
前夫の大学時代の友人の名前。確か、結婚式と、その後も何度か、飲み会で会ったような気がする。けれど、かろうじて名前を覚えているくらいで、全然見覚えはない。
「突然、すみません。俺の事務所、先月この近くに越してきて」
そういって彼は立ち上がり、胸ポケットからメタリックなケースを取り出すと、名刺を差し出した。
一級建築士 濱口翔吾。アーキテクトデザイン事務所。
「あ、わざわざ、すみみません。」
慌てて、私も名刺を取り出す。
真っ昼間の公園で、子供たちの歓声が飛び交う中、まるでビジネスマン同士の挨拶のようなやりとりが、異色な雰囲気を醸し出す。
「ライターさんですか。」
私の名刺の肩書きを見て、彼が眩しそうに目を挙げる。
「あ、はい。フリーですけど」
名刺を大事そうにケースにしまい、まっすぐに私を見つめて頬を緩ませる。
「きっと、そうなると、思ってました。」
キット、ソウナルト、オモッテマシタ。
なぜ、この人はそんなことを言うのだろう。
意外な一言に、しばし固まっている私を見て、彼が言葉を重ねる。
「覚えてないかなぁ。一度、酔っ払った慎一を送って行った時、もう遅いからって、一晩泊めてもらって。あいつが寝た後、ゆうこさんと話したこと。」
確かに、前夫はお酒が好きで、一緒に飲みに行った友人たちを連れ帰り、宿泊することもよくあった。でも、誰かとそんな話をした記憶なんて・・・
「あ・・・ショウキチさん?もしかして。」
記憶の回路がカチン、と音をたてた。
彼の顔がパッと明るくなる。
「そうそう、慎一にはいつもそう呼ばれてたっけ。」
一度つながった記憶の回路から、どんどんと記憶が溢れてくる。
そうだ。一級建築士のショウキチさん。慎一の飲み友達で、確か、グァテマラ好き。
「あの時、淹れてもらったグァテマラ美味かったなぁ」
そうだ。いつものように酔っ払って上機嫌の慎一が寝た後、コーヒーが好きだと言う彼に、コーヒーを淹れてあげたっけ。
彼の友人と話が合うことなんてめったになくて、本が好きで、音楽の趣味もあって、自分がブログや小説を書いていることも、そういえば話したような。
「今日は俺、もう仕事終わりなんで、よかったらコーヒーでもどうですか。美味いグァテマラを淹れてくれる店があるんです」
この近くで、グァテマラが美味しいお店といえば。
「・・・もしかして、MICADO?」
彼は一瞬、驚いたように私を見つめる。
「私、この近くに住んでるの」
なるほど、という表情で、目尻を下げて微笑む。
そうだ、この笑顔。知ってる。記憶の奥底に眠っている最後のカケラが呼び戻される。この笑顔に、私は・・・。
「じゃあ、俺よりよく知ってますよね。」
そう言うと彼は、私の返事を待たずにスタスタと歩き出した。
意外と強引だな、と思いながらも、自然と小走りで彼の後を追う。
◇◇◇
カランかラーン
「いらっしゃい。あれ?今日は・・・」
乾いたベルの音と、少し驚いたマスターの顔が出迎えてくれる。
「しょうちゃんとゆうこさん、知り合いだったの?」
「さっき、そこでナンパしました」
真面目な顔で言う彼の横顔をまじまじと見て、そういえば、ユーモアのセンスもなかなかだったことを思い出す。
マスターは何かを察したのか、ふっと微笑み、コーヒーを淹れる手は止めずに、黙って顎先で店の奥を指す。
ショウチキさんは軽く頷くと、私を促すように振り返り、店の一番奥の席に向かう。
ほどなくして、2杯のグァテマラが運ばれてきた。
いつもの儀式。
まず、両手でカップを包み込み、鼻先へ運ぶ。
目を瞑り、大きく息を吸い込んで、グァテマラの香りを身体中にいっぱいに巡らせる。
「変わってないですね」
優しい声音にゆっくりと目を開けると、まっすぐに私を見つめる彼の眼差しとぶつかる。
そう、この眼差しに吸い寄せられるように、私はいろいろなことを話して。
トクトクと、正直に高鳴る私の鼓動と、蘇る罪悪感。
鳥たちのさえずりがはじまった明け方近く。
おやすみなさい、の言葉と同時に、強く抱きしめられた腕の感触。
お互い震えながらのキス。
封印していた最後のカケラが、カチン、とはまり、一枚の絵が浮かび上がる。
慎一に愛されているようで、すれ違っていた結婚生活。日々自分の中で大きくなっていく違和感と焦り。
そして慎一の浮気。
自分の存在意義を確かめたくて、何かにすがりたかった当時。
そんな時に、私の話を真剣な眼差しで聞いてくれたショウキチさんの存在は、弱っていた私に、何かを錯覚させるには十分だったのだ。
どうしようもない昂まりの中で、心から求めたキス。
私も結局、慎一と同じなのだ、という失望感と罪悪感だけを残し、心の奥底に封印された記憶。
「俺・・・ゆうこさんのこと、ずっと気になってて」
彼の目を見ることができず、琥珀色の液体に目をおとす。
「あいつと別れたことも、知らなくて。すみません。今はもう、宮前じゃないんですよね」
黙って頷く。コーヒーカップがソーサーにカチャリ、と静かに着地する。
「今は、さかした、です。彼とは8年前に。」
ハッと息を呑む彼に、ゆっくりとした口調で、一言一言を発する。
「もう、だいぶ前からだめだったの。私たち。きっかけは彼の浮気で。」
そういえば、あのキスの夜から1年も経たずに、私たちは離婚している。
決してあの夜のことが原因ではない、と私なりに釘をさしたつもりだが、彼は黙ったまま、言葉を発さない。
店内に静かに流れるジャズが、二人の間にゆっくりと揺蕩う。
沈黙が心地よい。
いつもの大好きな空間、というだけではない何かが、そこにはあるような気がした。
「今でも、ジャズ聞いてるの?」
当時、好きなジャズピアニストやサックス奏者の話をしたことを思い出し、懐かしくて聞いてみる。
「アル・ヘイグは毎日車の中で流れてますよ。」
少しほっとしたように、彼が音楽の話を始める。
好きな音楽、作家、映画、絵画、仕事のこと。あの夜と同じように、私たちは自分たちの愛しいものを一つずつ広げ、目に見えない何かを確かめ合っていく。
穏やかで優しい時間の中に、少しずつ昂まり合うものを感じながら、2杯目のコーヒーをゆっくりすする。
気がつけば、すっかり店内は暗くなり、18時を回っていた。いったい何時間話し続けていたのだろうか。
「少し、歩きませんか」
彼の誘いに、断る理由はなかった。
マスターにごちそうさま、と軽く会釈をし、店の外へ出る。
昼間の真夏のような暑さとうって変わって、すっかり秋らしい10月のひんやりした風に、ぶるっと身震いして、薄手のコートを羽織る。
「寒いですね。」
彼の言葉に、黙って頷き、二人で並んで、ゆっくりと歩き出す。
彼のワイシャツの袖先と、私のコートの袖が擦れ合う。
私は何かに抵抗するように、両手をポケットにしまうと、ふと夜空を見上げる。
都内とはいえ、住宅街に近いこの地域では、夜になるとちらほらと星が見える。
彼もつられるように夜空を見上げ、束の間の小さなプラネタリムを、二人で見つめる。
彼の腕が、私の肩にぶつかる。
ためらいがちにしのびこんでくる手。
やさしく絡められる指。
少しためらった後、私もそっと握り返す。
その手の温もりから、全てが溶け始め、何かが二人の間に流れ出す。
なんとも言えない浮遊感と安心感の中で、私は束の間の安らぎを味わう。
いつかは消えてしまうこの瞬間を、今はゆっくりと味わいたい。
彼の腕にそっと頭を寄せて、もう一度夜空を見上げる。
消え入りそうに儚い光を放つ赤い星が、今この瞬間をあたたかく見守るかのように、優しく瞬いた。
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