小山田圭吾「いじめ」バッシング問題 11 2.ROJとQJの両方を読んでいるが、それらの読み方が私とは異なる人について

週刊文春のインタビュー記事や謝罪文を読んでも、それらに納得しないという人の中には、もちろん『ロッキング・オン・ジャパン』(以下ROJと略)や『クイック・ジャパン』(以下QJと略)を読んでいる人もいるでしょう。そうした人と私との違いは、二つの雑誌記事における発言や文春のインタビュー、謝罪文を読むときの読み方が私と異なり、それらから過去のいじめに関して、私が受け取ったのとは異なる状況を思い描いていることにあるのかもしれません。そこで、私がこれらのテキストをどのように読み、どのように推測したり判断したりしているのかを説明してみたいと思います。

 

私は哲学を研究し、大学で哲学と倫理学を教えて生活しています。他人の書いたものを読み、他人の発表を聴き、その内容を理解し批判する(そしておなじことを他人からされる)ということを20年以上続けてきました。他人の書いた本の書評を学術誌に発表したこともありますし、自分の書いた本が批判されたこともあります。このような経験を通じて、他人の言葉をていねいに読み、その意味内容を正確に把握し、批判すべき点と受け入れいるべき点をより分けるための方法を身につけました。

 

 また、研究者仲間と批判的なやり取りをしたり、倫理学を学んだり教えたりする中で、批判や非難という行為がどのような場合に正当なのか、あるいは自分や他人の行為を道徳的に評価するとはいかなることかを考える機会が多くありました。

 

私が他人の書いたテキストを読み、解釈し、批判するときの作法は、こうした経験の結果であって、けっして小山田さんについて論じるために急ごしらえで用意したものではありません。私と同じ業界に所属する人や、あるいはもっと広い一般社会で共有されうる客観的な内容を持っており、けっして私一人の恣意的な方法というわけではありません。

 

 「他人の書いたものを読み、解釈し、批判するときの作法」を一言で言うならば、「批判の対象とする他者に対し、できるだけ好意的に解釈して批判すべし」となります。しかし「読み、解釈する」場面と、「批判する」場面を区別するなら、次の二つの原則に分けることができます。

 

①批判の対象とする他者は、解釈者である自分と同じ意味で言葉を使っており、合理的な人であり(つまりあからさまに矛盾したことを信じたりしていない)、その人の主張していること・信じていることのできるだけ多くが真であると仮定して解釈せよ。

 

②批判対象とする他者について推測するときは、複数の可能性の中から、その他者にとってもっとも都合の良い可能性を選択せよ。

 

 順番に、これらの原則をなぜ採用するのかを説明していきます。

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