小山田圭吾「いじめ」バッシング問題 15 「他人の書いたものを読み、解釈し、批判するときの作法」、原則②について:善きことをすることよりも、悪しき行いを避けることを優先すべき
なぜこの原則に従うべきなのか、疑問に思う方も多いでしょう。小山田さんの口から否定される前は、じっさいにそうしたいじめがあったとする根拠もないわけではなかった。ただ確定的ではない、怪しい、ということだったのです。ですから、本当はあったのかもしれなかった。排泄物を食べさせるといういじめが本当はあったとき、それを批判の根拠から外すことは、大きな悪を見逃すことになるでしょう。これを批判の根拠の一つに含めるならば、なされた大きな悪に対して正しい批判が行われることになり、それは一つの善きことだと言えるでしょう。
しかし、実際にはそうしたいじめがなかった可能性も、小山田さんの口から否定される以前にすでにありました。(そして実際、小山田さん自身は、いじめとしてはそうしたことはなかったと主張しました。)あったかどうか、怪しむ理由もありました。排泄物を食べさせるいじめが実際になかったときに、そうしたいじめをしたという理由で批判をしたとすると、他者を不当な理由で批判したことになります。それは一つの悪しき行いです。排泄物を食べさせたことを理由とすると非常に強い批判をすることになりますので、非常に悪しき行いをすることになります。
この両方の可能性があるのですから、問題は「確定しがたいと思えても、悪しきことがなされたと想定して批判すべきか、それともなかったと想定して批判を控えるべきか、このどちらを選択すればよいか」ということになります。前者が正しい選択であった場合には善がなされますが、後者が正しい選択であった場合には悪が避けられます。前者が間違って選択されてしまった場合には大きな悪がなされ、後者が間違って選択されてしまった場合には、大きな悪が見逃され善が達成されません。
こうした状況で、「善を達成することよりも、悪を為すことを避けることを優先する」ことを求めるのが、いま取り上げている原則②なのです。誰かが被った悪しきことの責任を追及すること、その悪しきこと為した人を批判することは、善きことです。善きことをしないよりは、する方がよいのは自明なことです。困っている人を助けることは、ある種の状況下では義務だと言ってもよいでしょう。一方で、誰かに対して不当なことをしない、傷つけないことも、私たちにとっては一種の義務です。この二種類の義務のうち、後者の義務、他者に対して不当なことをしない、傷つけない、悪を行わない義務の方が、他者に対して善きことをするという義務よりも優先すると、原則②は主張します。
なぜこの原則②に従うべきなのでしょうか。一つの理由として、私たちの日常的な倫理観、道徳的感覚では、善を為すことよりも、悪を為すことを避けることのほうがより強く要求されるということが挙げられます。「義務」とされることの多くは、「~してはならない」と否定形で語られます。
ユダヤ教の「モーセの十戒」も「汝殺すなかれ」など行為の禁止を義務として定める内容がほとんどですし、仏教の十戒も「不殺生」など、冒頭に「不」がつくことからも明らかなように、一定の行為をするなと語るものです。
あるいは倫理学者の代表格であるカントは「完全義務」(ゆるがせにしてはならない、守るべき義務)と「不完全義務」(守ればよいことだが、守らなくとも悪いとは言われない義務)とを区別しますが、嘘をつくなどの悪い行いをしないことは「完全義務」であるのに対し、困った人を助けるという善い行いをすることは「不完全義務」だとされています。
宗教や倫理学は日常的な倫理観、道徳的感覚そのものではありませんが、それらに基づきつつ、それらを鋭く表現したものです。宗教の戒律や倫理学の教説は、そうした日常的な考えや感覚の一部を反映しているのです。したがって、善を為すことよりも悪を為すことを避けることの方が優先するという判断は、広範な支持を得るはずだと言ってよいと思います。
あるいは、現代社会の政治的な枠組みの基礎部分である個人主義・自由主義の考え方にも、善を為すことよりも悪を避けることを優先する考えが含まれます。個人主義・自由主義では、他人に危害を加えないかぎり、基本的には何をするのも個々人の自由です。愚かな行為をするのも、それが他人に害を与えないかぎり、個人の自由です。
ある人が競馬に大金を賭けるのも、それが周囲の人に損害を与えないかぎりでは自由です。あなたがその人を説得し、賭けるのをやめさせることができたなら、あなたは親切な人であり善きことをなしたと言えますが、そうしなければならない義務はありません。しかしあなたがその人が賭けようとしていた大金を取り上げて使えなくしてしまったら、それはその人の自由、権利の侵害という悪を為したことになります。それはすべきことではない、それをしないことはあなたの守るべき義務なのです。
このように、善きことを為すという積極的な義務よりも、悪しき行いを避けるという消極的な義務のほうが優先度が高く、それゆえ、過去になされたかもしれないいじめの悪を指摘し批判するという善行をすることよりも、過去になされなかったかもしれないいじめの悪を指摘し批判することで他者を不当に扱うことを避けることを優先するべきだということは、私たちが受けれ入れている倫理的な考え方、道徳的感覚からしてもっともらしい方針だと言えます。
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