小山田圭吾「いじめ」バッシング問題 7. このnoteで何をやろうとしているのか、そして「擁護」の意味について

ここで、一度二つの記事を読むことから離れて、このnoteの一連の投稿が目指していることや、考察の方針について少し書いておこうと思います。

 ここまでの考察を読まれて、「タカムラは小山田圭吾を擁護しようとしている」と思われたかもしれません。この受け取り方は、ある意味では正しいのですが、別の意味では正しくありません。正しくない意味で受け取らないようお願いします。

 小山田さんが過去にいじめをしたことは事実であり、ご本人もそれを認めておられます。またROJやQJの記事にも、わたしの目から見てもひどい発言が掲載されています。これらの点で、小山田さんは批判されるべきであるとわたしは思います。それなりに非難されるのも当然であると思っています。

 しかし、小山田さんがどのように批判されるべきか、どの程度非難されるべきか、それは決して明らかとは言えません。このnoteの一連の投稿でわたしがやりたいと思っているのは、「小山田さんはどの点で批判されるべきか、どの程度の非難をすることが正当であるかを考えるために、ROJとQJで語られていることの中から、批判・非難の根拠としうる点を明確にすること」です。そして、わたしが正当だと思える仕方で、小山田さんを批判し非難することです。

 実は、「どの程度の非難をすることが正当であるか」という問いに対して、はっきり「この程度の非難をするべきだ」と主張することは困難です。わたしがする非難の程度が適切ではないと思われる方も多いかもしれません。しかしわたしには、わたしたちが現在利用できる手がかりにもとづくかぎりでは、小山田さんに対してなされた非難やCDの発売中止などの措置は、明らかに行きすぎていると主張できると思われます。

 なされるべき非難の程度が言えなくても、現になされている非難が行きすぎであると判断することは可能です。例えて言うなら、「ジャズ」と「ロック」と「ソウル」の明確な境界線を引けず、ある作品にどの表現が正しく当てはまるかは判断できない場合があるとしても(たとえばアルバート・アイラーの『ニュー・グラス』はどれでしょう)、ビル・エヴァンズの『ワルツ・フォー・デビー』を「ソウル」と呼ぶことは間違っていると判断できるのと同じです。

 結果的にわたしは、現に小山田さんになされた非難を不当だとするという意味で、小山田さんを「擁護」していることになります。この意味でなら、「タカムラは小山田圭吾を擁護しようとしている」と言っていただいて構いません。

 しかし、「タカムラは小山田圭吾を擁護しようとしている、小山田がいじめをしたことも認めている、ということはタカムラはいじめという行為を肯定しているのだ」とか、「タカムラは小山田がひどいいじめをしたことを否定しようとしている」「QJの記事が差別的だということを否定している」などと受け取られるのは困ります。それは事実ではありません。わたしは小山田さんをそのような意味で「擁護」しているのではありません。

 わたしがこれまで書いたことをきちんと読んでいただければ、そのような意味で「擁護」していないことはすぐに分かっていただけるはずですが、SNSの世界では「読まずに非難する」ことを当然の流儀とする方が多数おられるようですので、念のために書いておきます。

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