小山田圭吾「いじめ」バッシング問題 16 「他人の書いたものを読み、解釈し、批判するときの作法」、原則②について:小山田さんのケースでの正当化

これまでは、日常的的な倫理観、道徳観、宗教や倫理学の考え方、現代社会のルールに訴えて原則②を正当化しましたが、それとは別に、小山田さんのケースとより密接にかかわるある重大な理由を用いて正当化することもできます。その理由とは、強い力、権力を行使する主体は、その力の強さを自覚的に制約し、制限する必要がある、ということです。

ツイッターのようなSNSで誰かが批判されるときには、多対一の関係になり、批判する側が圧倒的に強く、批判される側が圧倒的に弱いという力関係になります。ツイートをする一人ひとりは、ほとんど何の権力も持たない弱い一般市民かもしれません。しかし一人の力は弱くとも、集まれば強くなります。絵本の『スイミー』のお話が示している通りです。ときには、強い政治権力を動かすほどの力を持ちえます。

それほどの強い力が、一人の人に対して向けられるとき、そこに権力の非対称性が生じていることは明らかではないでしょうか。SNSは個々人の集合体ですが、これに新聞やテレビなどの公的なメディアまでが批判に加わるとなると、そのことはより一層明白です。

権力を持つ主体が、その強い力を、弱いものに対して行使するときには、その力を行使する側に強い責任が生じ、自身の力を制限する必要があります。たとえ犯罪者を裁くような、「正義の力」を行使する場合でもそうです。

 たとえば、刑事事件である人がある行為をしたかどうかが問題になる場合、挙証責任は警察、検察の側に課せられます。かりにその人が実際にその行為をしていたとしても、それを立証できなければ、刑事責任を問うことはできません。そのため、ときには悪人が世に放たれることにもなります。しかしそれよりも、罪もない人を有罪とし刑を科すこと、えん罪を発生させ、不当な仕方で個人の権利を侵害することを避けることの方が、より重要なのです。ですから、警察や検察の側に挙証責任が課せられ、それが果たされなければ、どれほど状況から怪しいと思われたとしても、その人を罪人とすることはできません。

具体的な証拠が挙げられない場合は自白が頼りになります。その場合でも、いくら相手が悪人であり、有罪にしなければならないからと言って、たとえば暴力をふるったり脅したりして自白を強要してはなりません。それは深刻な人権侵害であり、許されることではありません。

権力を行使する側が責任を負い、自分の力を一定の制約の下におくことの理由の一つは、行使主体である行政、司法のもつ権力が、行使される対象である個人の力に比べてあまりにも強大であるからです。そのため、たとえば基本的人権を保障する憲法と、それに基づく方によって、権力は自分が負う責任を明白にし、また力を行使する限界を定めているのです。

 

小山田さんに対するバッシングにも、結果的に強い力が行使されています。バッシングの結果、小山田さんは仕事を失い、所属するバンドの新作は発売されず、音楽を担当する番組の放送が休止されました。個人に対して、きわめて規模の大きい、強力な力が行使され、その個人の活動が制限されたり批判がなされたりしているのですから、この場合もやはり、その力の行使主体は、一定の責任を負い、かつその力の行使に制約を掛けるべきではないでしょうか。そして私は、そうした責任を課し、制約を掛ける原則として、原則②を受け入れるべきだと主張したいのです。

小山田さんがある悪しき行いをしたのかどうか、確定できない場合、批判すべきではありません。それは、力を行使するものが、不当な仕方でそれを行使し、小山田さんの権利や尊厳を侵害することを避けるべきだからです。その件に関してどうしても小山田さんを批判したいのであれば、彼がその行いをしたことを示す責任、挙証責任は批判する側が負うべきです。小山田さんの同級生や当時の学校の教師などから、いじめの存在を示す証言を取り付けるなどするべきです。それができないのならば、特段の理由もないのに彼の言い分を疑ったりするべきではありません。もし仮に私たちが小山田さんのことを信じることができないのだとしても、その気持ちを気安く彼にぶつける資格は私たちにはありません。

 バッシングの主体は、警察という行政権力のような、具体的な法的裏付けのある主体ではありません。「炎上」が生じているほんのひとときの間、Web上に出現するはかない存在です。法にのっとって運用される主体ではないので、それに責任を課そうとしても、自らに制約を負わせようとしても、それはきわめて困難です。さらには、この主体を構成する一人ひとりの人は、小山田さん同様かよわい一個人ですから、自分が強い力の行使主体(の一部)であるという自覚は持ちにくいでしょう。しかし、それでも現にバッシングが生じ、深刻な権利と尊厳の侵害が生じている以上、この力の行使主体には責任を課し制限を負わせる必要があります。

具体的には、この主体を構成する一人ひとりの人が、責任と制限を引き受けなければなりません。だからこそ、私も小山田さんには批判されるべき点があると思いますが、それを特定する際には原則②を引き受けたいと思います。そして今後Web炎上が生じるとき、それに同調して誰かを批判する行為に参加する際には、そのための最低限の条件として、いま論じている原則②を(そして原則①も)、引き受けることを求めたいのです。

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