小山田圭吾「いじめ」バッシング問題 6. どのように解釈するべきか?
二つの記事の食い違いを解消してつじつまを合わせるには、いろいろなやり方が可能です。
①性的ないじめに関してはQJの発言が正確だった。小山田さんは、ROJでは自分が積極的に関わったいじめと、そうではなく傍観者的立場にあった、あるいは「引いて」いたいじめを区別せず語ってしまっていたのであり、QJでの発言を手がかりにして、ROJの発言は割り引いて解釈すべきである。
②性的ないじめに関して、QJの発言は不正確である。じつはROJでの発言の通り、アイデアを提供するなど積極的に関わっていたのだが、イメージダウンを恐れて、QJでは責任を先輩に押し付けようとしている。
③ROJで語られている「全裸にして・・・」といういじめは、じつはQJで語られている村田さんへのいじめではない。村田さん以外に、小山田さんから性的ないじめを受けた人がいるのだが、その人の存在をQJの取材時に小山田さんは隠していた。
などです。時間をかけて考えれば、他にも可能性を思いつくかもしれません。
①は、小山田さんに対して好意的な、小山田さんにとって比較的有利になるような解釈の仕方です。このやり方で二つの記事を解釈すれば、小山田さんは村田さんに対して性的ないじめをしたとは言えません。もちろん何も非難するべき点がないとは言いません。小山田さんが村田さんをいじめていたのは事実でしょう。しかし「全裸にしてグルグルに紐を巻いてオナニーさして」は事実ではないと受け取ることになります。そこで、「小山田圭吾は障害者に自慰行為をさせるといういじめをした」と非難することはできなくなります。
そしてこのやり方で一貫して解釈をしていくなら、「小山田圭吾は障害者に大便を食べさせるといういじめをした」という非難をすることも、差し控えるべきだということになります。ROJの記事よりもQJの記事に信頼性を認める、ROJの発言を、自分がしたいじめ以外も含めるやり方で「盛った」ものだと解釈するなら、「障害者に大便を食べさせた」という非難の根拠となるROJの記事の信頼性は低いことになるからです。
注意していただきたいのですが、わたしは「小山田圭吾は(障害者、あるいは他の誰かに)大便を食べさせるいじめをしていない」と言っているのではありません。「大便を食べさせるいじめをした」という主張は信頼性が乏しいので、そうした非難は控えるべきだ、と言っているのです。
②や③のように解釈して二つの記事のつじつまをあわせるなら、小山田さんに対し、村田さん、あるいは他の誰かに対して性的ないじめをしたと非難することができるでしょう。ROJでの発言を正しいと受け取るのですから、誰かに大便を食べさせるといういじめをしたと非難できることにもなります。
しかしこの場合、QJの記事での小山田さんの発言の一部を否定することになります。このとき疑問になるのは、QJの記事での発言のうち、どれが信頼でき、どれが信頼できないかをどうやって判定するのか、ということです。ROJと対立する点ではQJを疑い、それ以外の点では信頼するという方針で判定するのだ、と言われるかもしれませんが、なぜQJよりもROJの発言の方が信頼できると言えるのでしょうか。
あるいは、小山田は極悪人だから、やったことが極力ひどくなるように信頼できる発言と信頼できない発言を判定していくのだ、それが一番リアリティのある推測になる、と言われるかもしれません。しかし小山田さんが極悪人だとどうして言えるのでしょうか。小山田さんを極悪人だとみなす根拠は、ROJとQJの記事のはずです。この二つの記事をどのように読むか、どのようにつじつまをあわせるかに先立って、彼を極悪人だと前提するわけにはいかないはずです。
わたしは、この場合は①のように、小山田さんに好意的に、有利に働くように解釈をして、二つの記事のつじつまをあわせるべきだと思います。これはわたしの個人的な方針であるとか、好みの問題であるとか、小山田さんに対する思い入れに基づく偏見、といったものではありません。テキストを解釈するときに、そしてそれに基づいて誰かを批判し、非難するときには、誰もが採るべき方針であり、小山田さんを非難しようとするだれもが共有するべき態度であると考えます。
なぜ小山田さんに好意的に、有利に働くように解釈すべきなのかについては、また後でご説明します。
いったん、ここで言えることを確保しておきましょう。軽率に、単なる印象に基づいて非難するのではなく、ROJとQJの記事を手がかりにして小山田さんをきちんと批判しようとするとき、記事内の発言から直接、「小山田は障害者に大便を食べさせるいじめをした」「障害者に性的ないじめをした」と結論することはできません。二つの記事の間には、うまく噛み合わない点、つじつまの合わない点があるからです。一定の解釈をして、小山田さんに不利な方へと推測してはじめてそうした非難は可能になるのです。
しかしわたしは、そうした解釈を採る真っ当な理由はなく、また採るべきではないと思います。ですから、わたしは「小山田は障害者に大便を食べさせるいじめをした」「障害者に性的ないじめをした」という非難は、不当だと主張したいと思います。
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