小山田圭吾「いじめ」バッシング問題 13 「他人の書いたものを読み、解釈し、批判するときの作法」、原則①について:なぜこのような手順で解釈するべきなのか

私が①の原則に基づく以上の手順を身につけたのは、現代の英語圏の哲学、特に言語哲学や心の哲学を研究する人たちの間でのやり取りを通じてのことです。これらの分野についてご存知の方は、「意味の全体論」や「命題態度についての解釈主義」といった話題と、以上の手順の共通性に気づかれるのではないでしょうか。「寛容(チャリティ)の原則」を連想されるかもしれません。研究会などで、他人の議論にたいしてまずい批判をする人に対して、私たちの仲間内では「もっとチャリティを働かせて解釈しなきゃ」などと言いあったりしています。

ただおそらくこの手順は、このローカルな学問分野に特有のものではないと思われます。私には、これは他者が書いた文を読み、解釈するときにいつでも要求されると思われます。あるいは、過去の出来事や遠く離れた天体など、直接観察して事実かどうかを突き止められない事象について合理的に推測していくための手続きの一種であり、多様な分野の学者・研究者が類似の方法を取っていると思います。そのばあい、解釈の対象は文書だけでなく、様々な資料や観察データも含まれるでしょう。

人文系にかぎらず、多くの知的分野で取られているはずの合理的手続きの一部なので、今回の小山田さんの件で、学者・研究者の肩書を持つ様々な人が、身につけているはず以上の手順を経ずに、ごく表面的な情報に無批判に依拠して苛烈な非難を彼に浴びせていたのには驚かされました。

 

この原則・手順を一般的に正当化する議論はできなくもないのですが、それだと小山田さんの話からずれすぎるので、今回は小山田さんの話題に関わるかぎりで正当化してみたいと思います。

小山田さんがしたとされるいじめに関して、信頼できると思われる情報源は、今のところ小山田さんがROJとQJという二つの雑誌で語ったこと、週刊文春のインタビュー、そして小山田さんがHPで公開した文章しかありません。小山田さんがいじめをしたという事実自体、これらの文章がなければ、私たちには知ることができませんでした。したがって、小山田さんがいじめをしたことを事実として認め、それを論じる人は、彼が事実を語っていると認めることから議論を始めざるをえないはずです。

 もちろん、これは必ずしも、彼が語っていることのすべてが事実であると受け入れるということではありません。このnoteでも取り上げた通り、ROJとQJの記述には食い違いがあるので、そもそもすべてを事実と認めることはできません。したがって、どの文が事実を述べており、どれが述べていないのかを区別しなければなりません。

 これらの記事や文章で取り上げられているのはいじめという深刻な問題であり、どのような事実があったのかに関する認識は、批判の対象である小山田さんに対して、強い道徳的非難の根拠となります。しかし他者を道徳的に非難することはとても重い行為であり、気安く行ってはなりません。したがって、どれが事実でどれが事実でないかの区別は、恣意的に、気まぐれに行われてはなりません。「この文は事実を述べていない、ここで小山田は真実を語っていない」と認識するには、そう認識する根拠が必要です。

 しかし先にも述べた通り、小山田さんが行ったとされるいじめについて私たちが持っている情報源は、小山田さんが語ったこと、書いたこと以外にありません。だとすれば、小山田さんのある語り、ある文を手がかりにして、彼の別の語り、文を批判するしかないでしょう。

 もちろん、彼の語ったことの中に、著しく常識に反すること(たとえば太陽が西から昇るとかラテン語を解する猫が存在するとか)が含まれていれば、語っていること・書いていることのつじつまが合っているか否かのチェックに基づかずに、それは間違っていると認定できるでしょう。しかし私の見るところ、そのような文は含まれていません。

 すこし難しいのは、いじめという行為についての一般的知見をどの程度重く見るか、です。たとえば「いじめという行為は被害者に重い精神的ダメージを与える。したがっていじめの被害者が、その加害者と和解することはありえない」という一般的知見があるとしましょう。小山田さんが小学校の時にいじめをしたという事実を認め、かつこの一般的知見を正しいと認めるならば、小学校時代のいじめの被害者が、その後小山田さんと友人関係になることなどありえないと主張することが可能になります。このような仕方で、小山田さん自身が語ったこと、書いた文以外のものを根拠として、事実を述べていないと判断することは論理的には可能です。

この一般的知見には、それなりの説得力と重みがあると思います。しかし、過去にどのような事実があったのかや、小山田さんや周囲の人々がどのように感じ、考え、振る舞ったのかを具体的に推定する根拠として使用し、当事者である小山田さんの主張を斥けるほどの確実性はないのではないでしょうか。個人の個別の感じ方や振る舞いについて、具体的な予測を導きだし、それを的中させるほど、詳細な内容を持ち確実性が認められるような法則はいまだ得られていません。集団の行動傾向ならある程度予測し的中させられるかもしれませんが、個人に関しては、科学的な心理学といえでもお手上げでしょう。

 今回の小山田さんの件に関して、この一般的知見が関わりを持つとすれば、どのようないじめがなされたのか、小山田さんと被害者の関係がどのようなものであったのかの確定に関わるのではなく、それが確定された後、その事実をどの程度深刻なものとして受け止めるかを論じるときだと思われます。たとえばその事実を軽く受け止め、たいしたことではないかのように論じる人に対して、「いや、そうではないのだ」と諌める時には有用でしょう。しかしこの一般的知見を利用して、「小山田は事実を語っていない」「ここで彼が語っていることは嘘だ」などと判断することはできないと思います。

 

というわけで、小山田さんが語ったこと、書いた文章の中で、事実を語っていない文を特定するときの根拠としうるのは、小山田さんが語った・書いた文以外にはないと思われます。それらの文のうち、どれがちゃんと事実を語ったもので、どれがそうでないかを決めるのは、実際にはなかなか細かい判断が要求されます。たとえばある特定の事実について詳細に語っている文は、事実だと認めにくいが、漠然と大雑把に語っている文は、事実でないというのは言い過ぎでも、正確ではないものとして却下しやすい、などのように考えて解釈を進めていきます。別の大きな要求として、「できるだけ多くの文を事実だと認めることができるように解釈せよ」もあります。一つ一つの文をデフォルトで正しいものと仮定することから出発し、「否定する根拠となる別の文があるときだけ否定する」という方針に従って進めていくなら、テキスト中のできるだけ多くの文が正しい、事実を述べた文とみなす解釈の方が、そうでない解釈よりも優れていることになるはずです。

解釈を詰めていく場合にどのような細かい要求に従うか、要求の優先順位はどうなっているかはかなり繊細なもので、画一的な規則にはまとめられないでしょう。

 

繰り返しますが、私たちには、小山田さん自身が語り、書いた文章しか手がかりがありません。それを信頼しなければ、彼を「ひどいいじめをした」と非難することすらできなくなってしまいます。したがってまずは、その語り、文章の総体を信頼して受け取るしかありません。つまりデフォルトで、小山田さんは事実を述べていると仮定するのです。そしてその上でテキストに内在的に批判的に読み進めていくしかありません

 こういうやり方を取らずに、たとえば「程度はともあれ、小山田がいじめをしたのは事実だ。それは彼本人も認めている。つまり彼は悪いやつだ。ということは、自分を守るためにいくらでも嘘をつくだろう。ということは、この主張も嘘で、もっとひどいことをやっていた可能性がある、いや、きっとそうに違いない」と考えて事実を推定し非難したとしても、解釈は恣意的になり、その非難には正当性が欠けています。「いじめをした」ことは事実ですが、そこから留保抜きに現在の彼が「悪いやつだ」と結論するのは飛躍ですし、そこから「この主張も嘘だ」と考えることもさらに飛躍しています。

根拠なくそのように推定してもいいのなら、そもそも小山田さんがいじめをしたと認める発言をどうして事実を語るものと認めるのでしょうか。このような解釈は、「小山田さんがいじめなんてするはずがない。ROJやQJでの発言はそれらの雑誌が一から十まで捏造したものだ。彼は全くいじめなどしていない」と小山田さんが認めている事実まで無視して「擁護」することと、恣意的で正当性のない主張をしている点で何ら変わりありません(「擁護派」と括られる人々がこのような正当性のない主張をしていると思っていそうな人も見受けられますが、私はそんな途方もない「擁護」をしている人を知りません。どこかにはそういう人もいるのかもしれませんが、ツイッターで盛んに発言しておられる方々はそうではありません)。

小山田さんを正当に批判したいのならば、これまで論じてきた原則に従って、彼の語ったこと、書いたことを解釈し、それを整合的に読む努力をするべきです。それが彼に対する批判の最低限の条件になると思います。


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