小山田圭吾「いじめ」バッシング問題 17 「他人の書いたものを読み、解釈し、批判するときの作法」といわゆる「キャンセル・カルチャー」「ハッシュタグ・アクティビズム」について

ここまで、私が小山田さんの問題について考え、判断する際に従っている原則について説明し、その正当化を試みてきました。それは小山田さんのインタビューやHPに発表した文章を読んで、私と異なる見解を持つ人に、自分の読み、解釈を納得していただくためでした。しかし書き進めているうちに、これまで論じてきたことは、それとは別の問題との関連でも意義があるのではないかと思うようになりました。それは、いわゆる「キャンセル・カルチャー」や「ハッシュタグ・アクティビズム」の問題です。

「キャンセル・カルチャー」とは、有名人や社会的に高い、強い立場にある人をその人の行動や言動を理由として批判し、何らかの責任を取らせようという活動だと理解しておきます。ここでは現在している仕事から降ろす(キャンセルする)、属している業界から放逐することが求められる場合だけでなく、求められないが結果的にそれが伴う場合も、求められず結果が伴わない場合も含めて、一括して「キャンセル・カルチャー」と見なされる活動だとします。

ツイッター上でこのような批判や責任追及が行われる場合、ハッシュタグ付きのキーワードをつけてツイートすることで、個々の批判につながりが生まれ、ツイート主の間に連帯が生まれます。このような仕方で、web上で連携しながらなされる社会運動は、「ハッシュタグ・アクティビズム」と呼ばれます。

北米では、こうした社会運動の是非について大きな議論になっているようです。日本でも、ほかならぬ小山田さんの問題や、歴史学者の呉座勇一さんの問題との関連で取り上げられる機会が増えてきました。どちらかと言えば「キャンセル・カルチャー」に対して否定的な言及が多いという印象があります。そもそも、こうした活動に批判的な立場に立つ人が、批判的な含みを込めてそう呼んでいるようです。

私はこのnoteで小山田さんに対する批判、非難が不当なものであったのではないかという問題提起をしていますので、「キャンセル・カルチャー」と呼ばれる運動やハッシュタグ・アクティビズムに分類される活動に批判的だと思われるかもしれませんが、そうではありません。そうした活動のすべてを支持するわけではもちろんありませんが、意義のある活動も多く、全面的に否定するつもりはありません。ですから、以下でもかっこ付きで「『キャンセル・カルチャー』」と表記することにします。

たとえば、呉座勇一さんを所属組織が解雇しようとしていることは不当であり、職場内での地位の保全を求める呉座さんの主張はまったく正当だと思いますが、呉座さんの件に関して出された、研究者や編集者などによるオープンレター「女性差別的な文化を脱するために」に問題があるとは思いません。呉座さんの処分に対する抗議は、処分しようとしている組織に対してなされるべきであり、オープンレターに関わった人たちに対してなされるべきではないでしょう(もちろん、その人たちの中に、呉座さんを不当に誹謗中傷していたり、所属組織に解雇するよう要求している人がいたら、その人は批判されて当然だと思いますが)。

私たちが生活している社会は、建前上はリベラリズムという考えに基づく社会である、民主主義的で自由主義的であるということになっています。そこでは、社会のメンバーとして認められる個々人は、平等な存在であり、一定の人たちを特別扱いしたり不当な地位に格下げしたりすることがあってはならない、ということになっています。そして子供などの一部の存在を除いて、メンバーが自由で平等であるという前提で基本的なルールが作られています。

しかし誰もが知っている通り、これは建前にすぎません。女性や障害者、被差別地域の出身者といったカテゴリーに押し込められる人は、出発時点で、押し込められていない人よりも不利な地点に置かれています。その地点から、「メンバーは自由で平等」という想定に基づいたルールでやっていくと、それらの人は結果的に大きな不利益をこうむります。本人が責めを負うべきではない不利益なので、その不利益は「差別」と呼ばれ、撤廃が目指されるべきでしょう。

しかしこうした不利益、差別は、社会を成立させるルールに正しく従った結果なのですから、その不当性は、その社会のほかのメンバーにとってきわめて見えにくいものになります。無視されるばかりか、差別の撤廃を求める声は、ルールに反する声、一種の「わがまま」であると多数の人から見なされることもしばしばです。

このような、リベラルな社会の中で生じてしまう見えにくい差別を解消するために、「キャンセル・カルチャー」と呼ばれる活動やハッシュタグ・アクティビズムに分類される活動は重要だと思います。また、リベラルな社会に残る差別的な構造の上で不当な行いをした人に対し、責任を追及することも正当な行為だと思います。

 ですが、「キャンセル・カルチャー」やハッシュタグ・アクティビズムに分類される活動を無条件に肯定できるわけではありません。それらの活動に従事する人は、善きことを為そうという動機の下に活動しているのでしょう。正義の実現を求めているのでしょう。それはそうだとしても、前のnoteで書いた通り、善を為そうという行動した結果、他者に対して悪をなしてしまうのであれば、その行動は避けなければなりません。善をなすことよりも、悪を回避することを優先しなければならないのです。

私たちはみな、失敗し間違う存在です。私自身、数多くの失敗、間違いをし、人を傷つける、恥の多い人生を送ってきました(どの面下げてこんなご立派なことを書いてるんだと、自分に突っ込みを入れ赤面しながら書いています)。ある状況で、どんなに自分が正しいという主観的な確信があったとしても、それが間違っている可能性はあります。この可能性を念頭に置くことは、どんなに善意に基づく行動をするときでも、正義を求める声を上げるときでも、必要なのではないでしょうか。

あるいは、ひどい被害、差別を受けた人自身が、「自分の抗議はまちがっているのかもしれない」と自制することは必要ではない。正当な怒りに水を差すのではなく、まずはその怒りを正当なものとして受け止めるべきです。しかしその人自身ではなく、その人の境遇に共感し、連帯しようとする人は、少なくともそのような立場から批判の声を挙げようとする人は、「自分は何か間違った認識をしているのかもしれない」と考えるべきではないでしょうか。

また、間違った認識をしていなかったとしても、結果的に過度に強い批判、非難が寄せられてしまう可能性を恐れるべきではないでしょうか。

「キャンセル・カルチャー」と呼ばれる活動や「ハッシュタグ・アクティビズム」は必要だと思います。しかしそれが適切に運用され、正義を求める声、批判の声が信頼を得て、正当な活動として社会の中で実践されるためには、その活動に従事する人には反省能力や節度が求められるでしょう。間違って不当な批判、非難を回避するためにも、強すぎる批判、非難を和らげるためにも。

そのためにも、今回説明してきた二つの原則に従うことは必要なのではないでしょうか。それで十分だとは思いません。もっと多くの原理が必要でしょう。また、個々人が倫理規範に従うだけでは、社会的な問題は解決できないので、情報環境を整えたり、法整備をすることも不可欠です。しかし個々人の責任を否定することはできません。私はネット上で展開される社会運動に従事する人、学者・研究者など、合理的思考ができて当然の職についている人には、これまで説明してきた原理を、最低限の要請として受け入れていただきたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?