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会ったことのない人と、言葉だけでコミュニケーションするしんどさの話。

世の中にコンピューターが浸透してきて、SNSなんていうものが発生したころ、私は、そこに自分が かかわることになるとは、到底思っていなかった。

話下手で、自分の気持ちをなるべく相手にわかってもらえるのは、書き言葉だという認識も、若いころに定着していた。ただ、私はその「書く」ことすら、相手に過不足なく伝えるという技術を今も持たない。56年生きてきて、「あ、伝わった!」と実感するのは、相手が私をある程度知っていて、なおかつ、私が考えている以上に、私を理解してくれている場合だ。私の言葉足らずを、相手が行間に想像力を働かせて、読み解いてくれているわけだ。

私自身、本を読むことが生きる大きな支えだったこともあって、行間を読む作業は早くからやってきた。本ならば、仮に作者の思いとは違うものを読み取ったとしても、それは読み手の自由、という特権で許される。もちろん、意図的に”誤読”して、悪意をまき散らすのは論外だけれど。

けれど、人とのコミュニケーションで行間を読み違えたとき、少なからずぎくしゃくする。もちろん、ちゃんとやり取りをして、わだかまりが氷解すれば問題はない。ただ、最近は、波風を立てたくない、というのが、この社会の風潮らしい。心にできたわだかまりは、早めに解消しておくのが良い、と、私などは思うけれど、相手が逃げてしまえば、深追いもできない。私は、最近ではいわゆる”大人の振舞い”めいたことをしてもいるが、実は執念深いのだ。まぁ、この年になって、深追いする体力も落ちてきてはいるんだけれど。

そういう性分なので、言葉だけでやり取りをするのが基本のSNSは、不向きだと思っていた。言葉以外の情報、相手の表情や声の調子などが全く分からないこの場所では、私のような面倒な性分の人間には、判断材料が少なすぎるから。

そういう私が、SNSを始めて、もう10数年たつ。このnoteは2年目だけれど、Facebookは、東日本大震災の翌年あたりから、始めたはず。ただし! それは現在のように、まだ実際にお会いしたことのない方々とつながりたいなどと願ってのことではなかった。或るコンサートのチケットプレゼントに応募するために、Facebookのアカウントが必要だったからなのだ。SNSに何らかの希望を見出したからでは、まったくなかった。

その私が、いろいろ痛い目にもあって、「こういう距離を取っておくかな」などと、調整しながら現在に至るうえ、noteにまで手を広げた。リアルな関係を結んでいない気楽さから、少しずつ冒険もできるようになった。

ただ。コメントのやり取りなどをしていて、「う~む。そうじゃあないんだけれど・・・・。でも、○○さんは、私のこと、そこまでご存知じゃないしなぁ」と、考え込むことが出てきた。ほかのところでちょくちょくコメント欄を拝見すると、あまり何度もコメントするのもよろしくないらしい。

私自身、どれほど大好きなクリエーターさんであっても、その方の記事を全部読破している自信はない。それを考えれば、私の記事を読みに来てくださるありがたい方々が、私の書いたものをすべて読んでくださっているはず、と考えるのは、あまりに傲慢だったりもするだろう。場合によっては、記事の埋め込み(苦闘の末、なんとかできるようになりました!)もするけれど、たいてい、前に書いたことでも、必要があれば、再度触れるようにはしている(なので、コメントなどで、「ああ、フラーノさん、そういうこと、前にも書いてらっしゃいましたね」とおっしゃっていただくと、もう望外の喜びです!)。

まぁ、ここだけのことではなく、Facebookもそうなので、やむを得ないところもあるんだろうけれど。ただ、当人が、何かについて「これは、私には無理」とか「私にはできない」とか書いている場合、その背景を知らないのなら、私はそのまま「ああ、そうなんだ」と受け取っておいたほうが良い気がする。

私は、外から観たらわからないけれど、両眼視ができない。生まれつきなので、当人は普通に観えていると長い間、思い込んでいた。実はそうではないらしい、とわかったのは3Dがはやり始めた頃。立体的に画像が視えてこないのだ。
両眼視ができない見え方が「普通」だった私が描く絵は、正常に見える人たちからは嘲笑の的になることが多かった。何故、笑われるのかが、私にはわからない。
昔、美術の教師から、「あんたには、どうして、これがこう見えるの? ふざけるのも良い加減にしな!!」と、叱責されたことがある。自分が視えた通りに描いているのに、何故叱られるのかが私にはわからなかった。今なら、そう反論もできるが、あの頃の私にそうした力はなかった。また、自分の見え方が”普通ではない”なんて、考えもしなかった。この経験から、私は、好きだったにも拘わらず、美術方面から10年、遠ざかっていた。もちろん、もっぱら鑑賞なのだけれど、それすら「私には、わからない世界なんだ」と思いつめて、背を向けていたのだ。

今は、両眼視できない方というのは、割にいらっしゃるということもわかっているし、もしかしたら、絵を描くことも、いい方法があるのかもしれない。けれど、私にもやりたいこともあるし、絵を描くことに費やす時間もちょっと見つからない。ここには、「みんなのフォトギャラリー」というありがたいものもあるので、最大限の敬意を払いながら使わせていただこうと思っている(本当に、皆様、素晴らしいです。ありがとうございます💕)。

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