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うちのインコにリハビリを手伝ってもらった話ーーインコとの生活あれこれ その2

5年前、当時早朝のパートに出ていた職場で、大けがをした。

今思い返しても何が起こったのか、よく覚えていない。腕を引っ張られたような感じがした次の瞬間、一回転身体がした気がした。そうして、右肩を床に強打した。

幸い頭は打たなかった。だがその分、強打した右肩に衝撃が集中したらしい。しばらく、立ち上がれなかった。なんとか、身体は起こしたが、立てない。それを観ていた同僚が、救急車を呼んでくれた。

もちろん、救急車に乗るなんて、初めてのこと。けれど、痛みが強く、脂汗すらかいていた私は、救急隊員の方にすべてを預けて、病院に運んでいただくこと以外、考えられなかった。まぁ、救急車が本当に必要な場合は、だれしもそうでしょうがね。

救急隊員の方々は、本当にプロフェッショナルで、車の運転すら私に余計な振動を与えないように、加えて、少しでも早く病院へ届けるために、慎重になさっていた。日本はすごいなぁ、と、痛みに悶えつつも、感動したことだけはを覚えている。

運ばれた救急病院は、家から遠い場所だったので、後日転院することになるのだが、そこでの痛みに耐えながらの検査で分かったことは、右肩の脱臼骨折。本来は、脱臼だけだったのに、肩を強打したはずみに骨の一部が、折れて、運動神経を圧迫している状態で、入院・手術が早急に必要、ということだった。

脱臼を治せば、事足りるはずだが、その時にさらに骨折する恐れもある。だから、手術して、処置したほうが安全だ、という。このままにしておけば、右腕が麻痺して、使えなくなるだろうとのこと。

このまま入院するよう言われたが、それはできない。家から遠すぎて、退院後の治療に通うには、無理があった。それに、一度、家に帰りたかった。相方に事情を説明しなければならないし、我が家のインコたちに会いたかったのだ。相方は、この日、泊まりの夜勤だったから、夜には、いなくなる。けがをして、右腕が使えない私に何ができるというのでもなかったが、ともかく彼らのそばにいたかった。

頑強に帰宅を望む私に、困惑する救急室の看護師さんたち。その中の一人が、「おうちに、ペットとかがいるんですか?」と、尋ねてきた。私は、我が意を得たりとばかりに大きくうなずき、「はい、ともかく帰らないと、だめなんです・・・・」と訴えたものだ。加えて、家から遠すぎるので、近所の総合病院への転院も、訴えた。

昔なら、患者からのこうした訴えは、緊急に治療が必要、というドクターの一言で、却下されただろう。けれども、今は、随分変わっているらしい。担当になったドクターは、随分嫌な顔をしたが、応急処置はさせる、ということで、了解された。

診断書とレントゲンのCD-ROMを渡され、主任の看護師さんから、「3日以内に、ご希望の病院に必ず行ってくださいね」と、念を押された。後日、Facebookで、複数の知人から、「自分は、同じ怪我の時、病院なんぞに行かないで、自力で治した」と言われたので、たぶん、行かない患者さんもそれなりにいるのだろう。痛みに弱い私には、そういう真似はできませんでしたがね。

帰宅して(職場の上司が、車で送ってくださった)、2日後に転院を希望する近所の総合病院に行った。そこでの診断も同じことで、翌週の入院・手術が決まった。家から遠いので、転院を望んだのだけれど、看護師さんの対応などは、はるかに最初の病院のほうが良かった。

診察の時、右手の指を動かしてみるように言われたが、どの指もピクリとも動かない。ドクターは、「う~ん、治らないかもねぇ・・・・」などと、のたまう。その時の診断では、リハビリを含めて、全治半年。ただし、しびれなどの後遺症が残るかもしれない、ということだった。

私は、こういう時、何故か楽観する癖がある。一種の現実逃避だと思うのだけれど、「なぁに、早く回復して、ドクターを、おどろかせてやろうじゃないの!」 と、内心思っていた。

現実は、甘くなかった。手術の翌日から、リハビリが始まったのだけれど、いやはや、思うように動かないのだ。痛みにことのほか弱く、加えて、怪我した時の恐怖が強く残っていた私には、「下手に動かして、また、脱臼したら・・・・」という不安が付きまとっていた。きちんと治療してもらっているのだから、大丈夫だと頭ではわかってはいても、痛みへの恐怖心から解放されないので、動かす勇気が今一つ出てこないのである。

作業療法士というプロの担当さんもいるし、その人には好感も持ったのに、身体が反応してくれない。たぶん、担当の作業療法士さんは、良い人だったけれど、かなりクールな方だったので、私の不安に寄り添う姿勢が、私には今一つ感じられなかったのだろうと思う。プロとして、患者にあまり感情移入しないように、訓練されているのかもしれない。

さて。ホームシックにすらなりながら、11日間入院。相方に迎えに来てもらって、帰宅した。ここから、週2回半年の間、リハビリのために通院する。部屋に入ると、我が家のインコたちが、いろいろに反応して出迎えてくれた。顔を観るだけで、ほっとした。

次の日は、さっそくリハビリの日だった。相方は休みだったから、留守を頼んで、出かける。家にいるときは、外しているが、外出するときは、三角巾で腕をつるようにとの指示が出ていた。3か月くらいで、この三角巾ともお別れできたのだったが、この三角巾は、他者に対しての「私、けが人です」のアピールでもあった。外からは、肩や腕のけがはわからないから、観える形にしておかないと、ぶつかられたりして危険だ、ということだった。

痛みに弱い私は、なかなかリハビリも進まなかったのだが、或る時、担当の療法士さんから思いっきり叱られたことで、一念発起。日々の生活の中で、肩や腕や指を動かすことを心掛けるようになった。

そのころだろうか。インコたちの一部が、私のリハビリを手伝ってくれるようになった。中型インコで、ピポナという子がいる。今年9歳になる女の子だが、当時は4歳。甘えん坊で、私にべったりの子。その子が、私の異変に気が付いて、世話を焼くようになった。

右手にしびれと麻痺があって、思うように動かせないというのに、ピポナは、私の右手に乗って、おやつをねだるようになった。彼女の体重は、そのころ160グラム前後だったと思う。筋肉が落ち、弾力も亡くなった右手に彼女を乗せると、右手が重みでフラフラする。そこで、彼女は大好物のひまわりを食べたい! というのだ。

「ピポナ、かあさん、こっちの手は、今、けがをしてるから、乗ってほしくないんですけれど」

そういっても、「ここで、欲しいの!」と言って聞かないのだ。仕方がないので、左手で、右手を支えて、ひまわりを掌に載せて、ピポナに食べさせる。これが、1日に2~3回あったと思う。

彼女が、何故、そうすることで私のけがが回復すると知っていたのだろう。最初こそ、しびれたりフラフラしていた右手は、病院のリハビリの効果もあって、次第に強さを取り戻していった。いつごろからか、左手の支えがいらなくなり、右手だけで、ピポナにひまわりを上げることができるようになっていったのだった。

病院の担当の療法士さんにこの話をしたら、目を丸くして、笑っていた。

「私より厳しい療法士が、おうちにいるんですね!」と。

ピポナ以外にも、私に右手を使わせるような行動をとる子が何羽もいた。彼らを抱っこしたりすることで、私は右肩や右腕を動かすようになり、秋には、病院からも完全に解放されたのだった。仕事にも、復帰できた。

飼い主に異変が起きたとき、我が家のインコたちがとる対応は、様々だ。私の腕の機能がかなり回復するまで、私の右手で触られることを嫌がる子もいたし(安定感に欠けていたのだろう)、そうかと思えば、わざわざけがをしている肩に乗って、甘えてくる子もいた。こちらとの距離もあるとは思うけれど、自らの安全と飼い主の回復と、どちらに比重を置くかで、差が出るようだ。

我が家ほど、数がいれば、もはや飼い主も群れの一員。そのメンバーの一人が、ダメージを受けたらどうやって助けるか。そういう意識が、彼らの本能には組み込まれているのかもしれないなぁ、と、思う。ただし、これは、安全な人との暮らしの中から生まれた意識だろうとは思う。自然界で、明日が無事という保証がない状態では、厳しいはずだから。もっとも、人と暮らしていても、明日が100%無事という保証は、ないんですけれどね。もちろん、人も。

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