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1/10 ライブをやった

別にアピールしたい話でも、誇りたい話でもないのだが、1/10はライブをやった。隠したい話でもないので言うが、ライブをやった。なんか、ライブを見に行ったら、「ライブをやりませんか?」って訊かれて、ライブをやった。他の参加者の皆さんも、皆さん客で。世の中、不思議なことが起こる。
何をやったかとか、どう考えたかとか、ライブ中に話してしまい、かつ高額を払ってくれた人限定に説明する文章も書き(けど赤字)、余所では書いちゃいけないだろうという倫理観があるので、特には書かない。
コンサート的なものはこの企画まで長らくやっていない。引っ越しして段ボールを片付けているのだが、昔の紙類が多数出てきて、そのなかに大学でピアノ演奏会に出たときの冊子が出てきた。

永遠の中二病を引きずってる人間なので、理解できないことを書くことが好きだったのだけど、この時期はたぶん、フランス現代思想らへんに憧れて何やら書いてたんじゃないかと思う。恥ずかしい。大変に恥ずかしい(自分の黒歴史を晒すタイプ)。写真もついていたが、今よりヤバい思想を振りかざしてそうな雰囲気があった。今は丸くなっちまったなぁ、お前(お腹をさすりながら)。
言わんとすることは、「作品というものがあって、作品には理想とかビジョンがあって、フーガ形式というのはまるで型に捕らえてしまうので理想を表現するための自由を奪うものであるようだが、実際には型をはめることで、そこで人間色んな創意工夫が誘発されるんだよ」、というのがグールドの言ってることで、それに対して、「分かる分かる~、で作中の形式って手癖でつまらないもの連発になりかねないから注意が必要だよね~」みたいな応答を返そうと思ったのではないか。あの頃、後輩にも、バッハってすげーんだよ、と熱弁を奮ってた。あー、偉そう。
傲慢な人間だと思う。昔から今まで。そして恐らく将来も。実家に帰って思ったのだが、兄がちょっと閉口してしまうくらい傲慢な人間であることに気付いた。どんなに自分が傲慢になってもこの人には勝てない、と思うくらいには。そんな兄に、人格的には引っ張られただろう。それから、母は保育園の先生に、「下の子も可愛がってあげてくださいね」と言われたことがあると急に思い出して「あんなに手がかかったのに」と今さら憤慨していた。それは大概、私に怒ってたからだろう。あの頃、兄と余所の子は褒めるのに、自分が褒めてもらってない、と何度も泣きじゃくってた。結果として、傲慢さと、褒めて構って、をハイブリッドしつつ、人間に怯える子供が出来上がりました。完成!ヒュ~!
傲慢だけど、人の顔を窺うので、ライブの楽曲選択や、演奏の仕方はサービス精神に富んでいたと思う。客の顔を見て選んだPOARO(For kitchen lovers ~もしくは世界の終わり~、変身ベルト)と学園祭学園(any love, anymore、嘘)の4曲。良い選択をした。そのうえでアレンジのサプライズも沢山いれた。曲中のトークも、皆、思い付いたものを喋るとか言ってたけど、自分だけガチガチに作り込んで笑いどころもちゃんと準備した。全部企画通りに笑いを取れた。逆にみんな、よくトークで自分の想いを喋るだけとか出来るね。自分には無理だった。でも自信はないので、ボソボソとした声でボケた。もっと大きな声でもいいのにね。結果として、ライブ中緊張してたのか、水を飲まずに最後までいってしまい、声がカスカスになってしまった。演奏もへべれけ。悔いは残っている。演奏会は昔から満足にいったことがない。周りには激賞された。これは昔と違うところだった。


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