震災10年

 ここひと月ほど、毎日震災の話しがニュースやネットで見られるようになりました。もうあの日から10年も経ったのか、となにか現実ではないような思いです。地震の瞬間は今も鮮明に覚えていて、その記憶は薄れることはありません。あまり時間が経っていないように感じるのはそのせいでしょうか。

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 その年、ただ呆然としていた私は、何をすることもなく被災地のことを思っていました。義援金こそお送りしたものの、それ以上に自分にできることなど考えられなかったです。情けない限りですが。
 翌年、被災地が実際どうなっているのかを見てみたいと思い、三陸縦断旅行にいってきました。夏に岩手の宮古からずっと南下して宮城の亘理まで海沿いを見て回りました。すでに大半の瓦礫は撤去され、道路の再整備が進んでいたので、スムーズに移動できました。
しかし、被災したまま残る廃墟や家の基礎部分だけが残って並ぶ町、そこかしこに積み上げられた瓦礫の山、建物がなくなった更地が広がる光景は津波被害の大きさを実感するのに十分でした。なにより衝撃だったのは、海沿いの町はどこもかしこも、憎らしいほど平等に壊滅していたことです。当たり前のことですが、気仙沼や宮古のような大きな町も、リアス海岸の狭い港町も、すべて。
宮古からずっと、そういう景色ばかりを眺めて走るのは、精神的にかなり辛いことでした。

 途中、災害復興ボランティアに参加したのが南三陸町です。ネットの検索で「三陸 ボランティア」という単純なキーワードで最初にヒットしたのが南三陸町でした。ここで多くの方と関わり、落ち着いて被災地について考えることができるようになりました。
 ボランティアセンターで出会う各地から集まる人、暖かな雰囲気の民宿や活気のある仮設のさんさん商店街、多くの人の思いが一つになっているこの場所が、私を変えたのだと思います。

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 この旅で決意したことは、「10年」でした。復興には10年はかかる。だから10年間被災地を見続けよう、ということです。たまに見るとかではなく、継続して変化を見て、応援して寄り添っていくことが必要なのだ、と。
 以来、三陸への旅をしています。岩手の方までは時間も必要なので1年おきにしていますが、南三陸への訪問は毎年続けてきました。行けば行くほど、日々変化する町の姿や、奮闘する方々の未来を見続けたいと思うようになりました。
はじめはボランティア中心でしたが、イベントに参加したりお祭りに行ったり、街歩きや城探索をしたり、被災地であること以上に町の魅力そのものに惹かれるようになりました。顔見知りになった方もできて、もう第二の故郷です。

 復興工事が本格化し、盛土による造成が進むのをみて感じたことがありました。故郷というのは、年月を経て移ろうものですが、変わらないものがたくさんあって、何十年経ってもその面影がゆりかごのように心の拠りどころとなるものです。
 しかし、被災地の多くは盛土や築堤など、大規模に地形が更新され、以前の姿を思い出すよすががなくなっていきました。さんさん商店街は10mの盛土の上。足元にはかつての町並みが埋まっているのです。心が締め付けられます。

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                             (2019年)
 それでも新しい街ができていくのが楽しみ、という方の声を聞いて気持ちが少し軽くなりました。見るべきは未来。
 今までのふるさとは失われても、未来のためのあたらしいふるさとを創ることが、今を生きる我々の役割ですね。

 この10年という節目の日を迎えて、風化せないようにしよう、という言葉がよく聞かれます。それ自体は大事なことですが、それだけでは片手落ちです。復興工事が一段落すれば、過疎化の進行という現実も見えてきています。
 昨日、サンドウィッチマンの番組で、若い人がたくさん紹介されていました。東北の、ふるさとの未来を作ろうとする彼らの姿は力強く、感動なんて陳腐な言葉では言い表せない気持ちにさせられました。これからの日本がすべきことは、彼らがその思いのままに活躍できる環境を作ることではないでしょうか。
 
 10年見続けようと思って、その10年が過ぎました。その中で生まれた気持ちは、「また次の10年」ではなく、「これからもずっと」です。私はこれからも東北に、南三陸に足を運ぶことと、私の立場でできることをこれからも続けていきます。忘れない、ではなく、ともに歩む。

 東北の皆さん、南三陸の皆さん、よろしくおねがいします。

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