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「誰の人生にも必ず、ドラマがあります」を、ドラマにする職業・エッセイスト。

小澤竹俊さんの『もしあと1年で人生が終わるとしたら?』という著書を読んでいたら
タイトルにも入れた「誰の人生にも必ず、ドラマがあります」という一文が出て来た。

確かに、どんな人生にも色々な出来事があり、生きているということは等しく価値があるのだ、ということを表すには凄くピッタリの言葉である。

けれど、私の脳内に浮かんだのは
「え、エッセイスト(コラムニスト)やってる人達…すごくないか…?」
という一言だった。
思考の飛躍に、スキージャンパーもびっくりである。


思考の道筋は、大まかに言って下の通り。

「どんな人生にもドラマがある」
それは理解できる。
他者の歩み寄りと、理解力などがあれば 人生は誰のものでもドラマになり得る気がする。

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だけど私含めドラマになってない人生って大多数存在しているよな。
人生って共有出来るコンテンツに昇華するのは、個人レベルではかなり難しいのでは…?

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人生や、その瞬間の感情を見つめて言葉にしたものがドラマとして、他人と共有出来る。
つまり、それってエッセイやん!!! 👈イマココ

読者の方は付いてきているだろうか……?



ここからは私のエッセイ愛を語らせてください。


私は、エッセイが好きだ。
他人の日常や思考を覗き見ることが出来るし、自分とは違う考え方や価値観に触れることで、自分の視野すらも広げてくれる素敵なものだ。

けれど、エッセイは書けないなーとも思う。
覚悟がないのだ。

どんな風に書いても、言葉というものは自分の思惑と違った形で消費されてしまう可能性を孕む。
そのギャップ自体も恐ろしいと思うし、ギャップの大きさが筆者には計り知れないという所も怖い。

こんなふうにnoteでいくつか日記や雑記は書いたとしても、エッセイとして継続し 対価をもらって仕事にすることは、お豆腐メンタルの私にとっては中々ハードに感じてしまう。
あくまで、今日の今これを書いている私は、という限定であり、もしかしたら経験とともに変わっていく意見かも知れないけれど。


そして、技術的な面もすごいと思う。
真似出来ない。

私は ジェーン・スーさんや最果タヒさん、穂村弘さん、アルテイシアさん、吉川トリコさん、小川糸さん などのエッセイを多く読むのだけれど、どの人も「自分の言葉」で書いていて、心底尊敬してしまう。

ここでの自分の言葉、というのは国語の授業で言うような「自分の言葉で作文を書きましょうね〜」とは話が違う。

例えば 「温かい気持ちになりました」 という表現ひとつとっても、日本語って広すぎるのである。耳馴染みの良い表現でぼやかそうとしたら、いくらでもボヤ〜っとそれなりの文章が書けてしまう。

「温泉に浸かった時のような安らぎを感じる」温かい気持ちもあれば、
「隣の席の赤ちゃんと目が合った瞬間に笑いかけてくれた時のような、ポワッと明かりが胸に灯るのを感じる」温かい気持ちもあると思う。

でも、いちいちそんな風に細分化していたら
ひとつのエピソードが膨大な文量になってしまうし、筆者も読者も負担が大きくなり過ぎる。

かと言って、ぼやけた表現でふんわりとなんか心地いい感じで終わったエッセイって、2歩歩いたら忘れる。

コラムニスト・エッセイストの皆様は、そこのバランスの取り方が絶妙なのである。
本当に凄いし、皆さんが書いてくれるおかげで私は日々にやけながらエッセイを読めるので、大・感謝!!


最初のテーマ「誰の人生にも必ず、ドラマがあります」に話を戻すと、
普通なら目を向けられないはずの一般市民の人生を文章として 共有可能なコンテンツにしてくれているエッセイストの皆さん、本当に凄いよなぁってこと。

偉い人や、著名な人、歴史上の人物についての人生ドラマも面白いし学べることもあるけれど、
今の日本は、「令和」を生きる「一般人」が大多数を占めている。

そんな我々が一番求めているのは、同じく「令和」を悩んだり揺れたりしながら生きる「一般人(に近い立場の人)」の言葉であり、
身近なテーマのエッセイに熱烈に共感してしまうのも似た理由なんじゃないかしら、と私は思う。

グルグルと話を綺麗にまとめられないまま終盤に来てしまったけれど、まあ、言いたいことはエッセイが好きだということ。
そして、改めて考えるとエッセイストさんたち凄いよな?!ということ。

本当にいつもありがとうございます🌸
感謝の気持ちを忘れることなく生きて行きたい。
今後もエッセイを読み続けたいから、エッセイストの皆さんには是非ごりごりに書き続けて欲しいと強く願う。

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