見出し画像

秋季号の夏(最終更新:2024/07/23)


目次 1

会社の昼休憩中に近所の書店へ行く。文芸誌コーナーには最新号が平積みされていて、群像は武塙麻衣子さんの連載に加え、山本ぽてとさんの随筆まで載っているし、新潮は今読み進めている最中の『百年の孤独』特集が組まれていて気になるが、今回買うのは文藝2024年秋季号。なかなかの分厚さ。
本屋を出ると外はものすごい暑さで、会社へ引き返す短い道のりでも汗が吹き出る。とうとう夏が到来したな、と思う。「秋季号」というタイトルと、実際に体感される季節のズレ。

仕事の案件が思いのほか立て込んでいて、あれこれとこなしているうちに定時過ぎ。
帰宅後、『百年の孤独』を読み進める。347ページ~376ページまで。小町娘のレメディオスの昇天は、周囲の男が彼女へ身勝手に欲情しては死に、それらの死の原因が全て彼女へと不当に押し付けられる、そんな場所の重力からの解放というニュアンスが感じられ、高畑勲『かぐや姫の物語』を少し連想した。

文藝2024年秋季号の表紙をめくると、目次がある。今月はまず創作が三本。続いて特集1「世界文学は忘却に抵抗する」、特集2「怖怖怖怖怖」、その後に特集の括りからは外れた今村夏子の短篇、町屋良平のインタビューの題名がならぶ。最後に、連載、書評、季評などのタイトルの列記。
各作品は目次の上で、「創作」や「特集」などに分類されてならんでいる。例えば目次の1ページ目には「創作」という括りで、安堂ホセ「DTOPIA」、木村紅美「熊はどこにいるの」、滝口悠生「連絡」のタイトルが隣り合ってならんでいるが、実際のページ順では、「DTOPIA」(8~75ページ)と「熊はどこにいるの」(206~208ページ)の間に、特集1がまるっと挟まっている。
目次順は、実際のページ順とは異なるルールによってソートされているのだ。

だが読者は、必ずしも雑誌を1ページ目から順番に読んだり、目次に従って読み進めたりするわけじゃない。それぞれの文章への興味の度合い、その筆者ことを知っているか、内容は簡単そうか難しそうか、どれくらいの時間で読めそうかなど、様々な要素を踏まえつつも直感的に判断して、読みたいところから読む。しかも、収録作を全て読まずに、途中で放り出したっていいのだ。

目次順と、ページ順と、実際に読者が読む順番は異なる。
しかも、読む順番は、読者の数だけ異なっている!

この日記は、文藝2024年秋季号を読み終えるまでの期間、継続する予定だ。前述したように雑誌を途中で放り出す可能性もあるが、一応、収録された文章すべてに目を通し、一冊の読破を目指すつもりではある。
そして、この日記では日付の代わりに、その日読んだ文章のタイトルをラベリングに使い、雑誌の目次順に並べていく。本来、時系列順に記録されるはずの日記を、雑誌の目次のルールに合わせてソートするのだ。
そんなことをして何になるのか。僕にもよくわからないが、「雑誌を読む時間」のありさまを浮かび上がらせる試みとしてやってみたい、というのが現時点での僕のモチベーションだ。

特集1 世界文学は忘却に抵抗する

鼎談:
斎藤真理子×奈倉有里×藤井光
「見えない大きな暴力を書きとめる─「現代を映す10冊」をもとに」 78

昼のうちに『百年の孤独』を最後まで読み終える。恋と性欲に塗れたり、何かに夢中になった時間もいつか色あせ、次第に絶望へと陥り、老いに追いつかれる哀しみ。しかし、その哀しみさえも、いつかは忘れられすべては跡形もなく消え去るのだ!というところに叩き込まれる。600ページほどかけて大量の登場人物の人生を追ってきたからこそ、ラストの虚無の重みが出るし、その重み分がすべて無に帰すからこそ謎の清々しい余韻がある。

渋谷へ向かう電車内で斎藤真理子×奈倉有里×藤井光「見えない大きな暴力を書きとめる─「現代を映す10冊」をもとに」を読む。かつて「世界文学」という言葉には祝祭的な響きがあったが、今や世界文学からはハッピーさは感じられない、という話は面白かった。インターネットの普及などが手伝って、世界各地がグローバルになものとしてつながり、世界のシリアスな問題も単に対岸の話と言いづらくなってきてしまった背景があるのかも。鼎談の中で言及されている作品の中では、サーシャ・フィリペンコ『赤い十字』が気になる。

ヒカリエでのZINEのイベントや、渋谷公園通りギャラリーの展示を少し覗いてから、今月3回目の渋谷らくごへ。
柳家小ふねさんは婚活についての枕から面白く、「たらちね」も独特なくすぐりが増えていて楽しい。柳家やなぎさんは初見。古典を改作した「フラグ短命」は普通の古典も上手そうな安定感だからこそ、ぶっ飛んだアレンジが映える。三遊亭遊雀師匠はゆったりじっくりの「道灌」。顔の微細な表情が可笑しい。トリの入船亭扇辰師匠はたっぷり「井戸の茶碗」。ちょっとした仕草や描写の積み重ねによってキャラクターの人柄が浮かび上がる感触。ほくほく大満足な気持ちで会場を出る。そのまま、代官山方面に歩き蔦屋書店を覗いてから家路へ。

特別企画:
松田青子+インタン・パラマディタ 太田りべか訳
「往復書簡 越境して結束をする私たちの方法」 92

仕事の合間にradikoで「J-WAVE TOKYO MORNING RADIO」の友田さんが出演した箇所を聴く。パーソナリティの別所哲也の語り口が過剰な優雅さで面白い。ディズニーアニメの伯爵キャラがラジオをやっているようなイメージを浮かべる。

仕事帰りに「立川流 夜の新作の会」を観に行く。前座の立川のの一さんの新作が、隠居と八五郎で、長崎土産の香辛料を色んなお茶に入れて味見をする、というなんともほのぼのした出だしで面白い。最終的に「チャイ由来の一席」になるアホらしさも楽しい。がじらさんの「Kappa」も面白かった。芥川龍之介の「河童」は実は落語へのオマージュなのではという、何だかアカデミックなやりとりが始まったかというと、河童そのものが登場してからは途端に馬鹿馬鹿しい展開になるのが楽しい。談吉さんの「ゲル状のもの」は二度目だけど、”ゲル状のものが恩返しに来る”という変な話なのに、「みゃーちゃん、可愛かったな」というつぶやき、缶ビールと出来合いの惣菜で済ます一人暮らしの夕飯、「生まれ変わったらキャビンアテンダントになりたい」など、ところどころのディテールにじんわり感動してしまう。

帰りの電車内で、「往復書簡 越境して結束をする私たちの方法」を読み終える。インタン・パラマディタはインドネシア出身の小説家。互いの国の文学・出版業界や、フェミニズムの状況などが主な話題となる。書簡は太田りべかが翻訳したのち相手に届けられるので、翻訳文化についてのやりとりも多く、海外では書籍の表紙に翻訳家の名前が載らないケースが多いと知って驚いた。大きなテーマの合間に、お互いの飼い猫についての話が挟まるのも良いな、と思った。対談だと、一連の流れの中で別のトピックをいきなり語り始めるのは難しいけど、書簡であれば、複数の話題を並べて、同時に投げかけられる。

チダーナン・ルアンピアンサムット 福冨渉訳「群猿の高慢」 160

相変わらず天気は不安定で、家を出なければいけない時間ぎりぎりまでだるくてベッドの上でうだうだしていた。仕事の案件数はほどほど。今年は売上が落ちているらしく、夏の賞与も昨年より減るらしい。とほほ。

帰宅後、戦争をテーマにした書き下ろし短篇から、タイの作家、チダーナン・ルアンピアンサムット「群猿の高慢」を読む。訳は福冨渉。三つの猿の群れによる戦争を描いており、主人公が、別の群れの長老猿を、思想や考え方は一致しないがリスペクトし得る相手と思っていて、さりげなく毛づくろいする場面がほほえましい。激しい猿たちの戦争は、人間によってあっというまに鎮圧される。猿たちが信仰を抱いていたことも、猿から猿へリスペクトの毛づくろいがあったことも、全ては人間の圧倒的な権力の前には、無いに等しいものとなる。その虚しさ。
訳者の解題で、作者が「本作の執筆中は猿モードになっていたようで、自分のことを日本語で「サルコ(猿子)」と呼んでいた」と書いてあって、それも好きなエピソードだった。作者は1992年生まれ。サルコは僕とほぼ同い年だ。

論考:
古川日出男「文学の時差」 173

少し気温が下がって汗はかかないものの、低気圧によるものか、頭痛でぼやーんとしたままの一日。
仕事の合間に短歌を2首ほど仕上げて、帰宅後、未来短歌会の結社誌に送る原稿を作る。なんとか10首間に合わせたが、短歌の作ってあるストックがもうほぼ無いので来月の投稿分が心配。

『百年の孤独』を535ページまで。もう残り100ページを切っている。ウルスラやレベーカ、セグンドの双子が亡くなり、ブエンディア一族も衰退に向かっているような気がする。様々なことが忘れ去られる中、最後まで自分の見た歴史の事実を伝え続ける者とそれを聞き届ける者がいる、というシーンが印象的。
古川日出男の論考「文学の時差」。短いながら消化しきれてないところもあるが、作家自身に痛みも変化もないいまま一方的にメッセージを書き連ねるもの(=処方箋が書いてある本)に文学の有効性はなく、時に作家自らのアイデンティティすら分解し翻訳しながら、様々な社会的・歴史的・文化的な”時差”を埋めていく試みにこそ有効性は宿る、という理解。冒頭、作家志望者へのアドバイスも興味深かった。まず大量の本を読み、その中から「凄い」と思った3人の作家の3つの本を選んで、細やかな再読を繰り返すこと。

作家を創った世界の小説3冊:
金子玲介「語りに魅せられて」 182

気圧が下がったせいか午前中は視界もぼんやりしてどよーんとした調子。
ランチ休憩で、会社の近所のガストに入ろうとしたら、ちょうど店員さんが貼り紙を持って出てきて、「すみません、今日この後、貸し切りになってしまって……」と入店を断られた。平日のガストを貸し切りするような集団って、何だ……? テレビの収録とか入ってたのだろうか。で、思ったところで食べれなかったのでうろうろさまよった結果、焼肉ライクに入って昼から肉と米をモリモリ食べてしまった。

午後からは仕事がちょいちょい立て込んで、キリの良いところまでやって定時で退勤。帰宅後、YouTubeを見たり友達とLINEしたりしてたら結構夜遅くなってしまったので『百年の孤独』には手をつけず、文藝の世界文学特集から金子玲介のエッセイ「語りに魅せられて」を選ぶ。奇想の短篇小説が好きなので、文中で紹介されているケリー・リンク『マジック・フォー・ビギナーズ』が気になる。

小池水音「世界と片手をつなぐこと」 184

サクサク仕事を済ませて定時退勤。渋谷へ移動し、ユーロライブで渋谷らくごを観る。
トップバッターは立川談吉さん。「ゴメス」は以前もシブラクで見たが、不意打ちで場違いな単語が挿入されているのにバグらないまま世界が進行しているようなへんてこさ。「持参金」も以前談吉さんで観ていて、女性の容姿イジリや金目当てで女性を嫁にもらう展開など、元々のこのネタにある女性蔑視な部分について、むしろ明らかに人間ではない生き物に置き変えることでクリアできないかというチューニングの意図は分かるけど、そのアレンジによる生々しさも出てしまって、ちょっと引いてるお客さんもいる空気を感じた。「持参金」は観る機会自体減ってきているが、個人的に、演者がどんなチューニング・アレンジをしているかのみに目が行ってしまうネタになりつつあるのでよろしくない。
古今亭志ん五師匠は観るのが久々。お天気をテーマにしたテーマパークの噺、という妙な新作なのだけど、志ん五師匠は落語中の言いよどみやフィラーが少なく、聞き心地が良い。
国本はる乃さんの浪曲は二度目。やはり伸びやかで生き生きとして楽しい。もっといろいろな演題を見てみたい。
瀧川鯉八師匠は、にきびをつぶしてトリップするという、どうやったらそれだけで一隻の落語に仕上げる気になるんだという新作。圧倒的な勢いで走りきる。途中から鯉八師匠が、完全にヤバい目つきをしたおばあさんにしか見えない。
全体的に変なネタばかりだったのに、金曜の疲れがほぐれて、何だかほくほくした気持ちで帰路につく。

寝る前に文藝を開き、小池水音「世界と片手をつなぐこと」を読む。片手には自分が共感できるもの、もう片方の手に自分にとって未知のものを渡してくれるような、海外文学を読むときの感触のこと。

日比野コレコ「アデノウイルスで死にかけのワニ」 187

僕の住むアパートの向かいの小学校が選挙の際はいつも投票所になるので、自宅を出て投票を済ませて帰ってくるまで、10分もかからない。今日も朝のうちに都知事選の投票を済ませて帰ってきた。投票所とのこの距離感によって、僕にとって選挙とはそんな大げさなものでなく、何か出かけるついでに済ませられるような気軽なものなのだ。人によってはわざわざ出かけるのが億劫な場所に投票所があったりもするだろうから、「選挙」や「投票行為」というものに対して抱くイメージは人それぞれ違うだろうな、と思う。

自宅で、録画していた「鬼平犯科帳 血頭の丹兵衛」を見て、『百年の孤独』を読む。シーズン1の締めくくりとして、前話やシーズン冒頭の場面を踏まえつつ、良い感じのまとめ方。橋爪功演じる蓑火の喜之助が最高なので、ぜひ今後のシーズンで「老盗の夢」も映像化してほしい。
『百年の孤独』は444ページまで読んだ。かつてマコンドの人たちをがっかりさせた活動写真だが、時代が巡り、映画館が若者の恋の舞台になるのが面白い。文化・文明も最初のころから比べて大きく変わった。本編は残り200ページを切った。こんなに分厚い本を読み終えられるだろうか、と最初は心配だったが、一日数ページでも読み進めればいつかは終わる。

夕方から家を出て、浅草木馬亭で「真山隼人ツキイチ独演会 第29回」へ。今回は国友忠特集と題して、国友忠が創作した作品「槍の剛八」「狐絵師」の二題に加え、1998年に木馬亭で収録された国友忠本人による「猫虎往生」口演映像の上映という企画。上映機材の調子が悪く、ラスト15秒で映像が止まってしまうという不具合があってそれは残念だったが、息子のために金を工面しようと、唐辛子の大食いに挑戦して1万円を得るもそれが元となって死んでしまった車夫の葬式を描く「猫虎往生」はとってもユーモラスかつ、最後は生き返ってハッピーエンドだったりして楽しかった。真山隼人さんは今回も明るく楽しい。長く高音が出るくだりでぐっと引き込まれた。沢村さくらさんの三味線もかっこいい。
木馬亭を出たら、都知事選の当確の報道が出ていた。

帰宅後、文藝の世界文学特集の中から、日比野コレコのエッセイ「アデノウイルスで死にかけのワニ」を読む。エッセイの文体自体が変化したり揺れたりしながら、短い中に様々な切り口が入っていて面白い。

言葉が世界をつくるのでも、その逆なのでもなく、言葉とは、現実である。そのとき、比喩というのは、物語規則である。

文藝2024年秋季号 188ページ

すべてと恋に落ちる可能性を秘めている人だけに惹かれる。(中略)もちろん恋というのは狭義での恋愛の話ではなく、たとえば、路地に迷い込んだら目に映るあらゆるもののうちどれかにひとめ惚れする、可能性をぜったい的に持っている、ということだ。受け口の猫とか、細くて強いオレンジ色の光線とか。それに自らのすべてを賭す計算間違いの鮮やかさである。

同上

この辺りの文が印象的。日比野コレコの小説はまだ読んだことがないので、近々何か読みたくなった。

特集2 怖怖怖怖怖

対談:
春日武彦×梨「本当に怖いフィクションとは何か?」 290

友田さんがXに『群像一年分の一年』の感想を書いてくれていてありがたい。「(自分で決めたにせよ)目の前の状況を受け入れて面白がる著者の姿勢は、人生を面白がるヒントに満ちている」という一文を読み、俺の本はそんなにステキなものだったのか、と驚く。

家を出る前に、文藝の春日武彦・梨の対談記事を読む。現実の思わぬ側面が浮かび上がってくるホラーを描くために、現実らしさそれ自体を模倣するドキュメンタリー的な手法を用いてきたが、それが「フェイクドキュメンタリー」としてフィクションのジャンルとして認知されてきた現在、クリエイターはどこに立脚してホラーコンテンツを制作しているのか、という対談。SNSが流行して、様々なコミュニケーションのレイヤーが複雑に入り混じっている中で、その中にどうやってノイズ的な恐怖を紛れ込ませるかというのは、作り手にとっては結構難しそう。
ちなみに、僕は卒論でフェイクドキュメンタリーについて、「作品世界の内部にカメラが備え付けられていることによって、観客はむしろ安全圏から作品を楽しめるの」ということを論じたのもあって、ドキュメンタリー的な手法が必ずしも恐怖に貢献するわけではないのでは?と、少し疑問に思っていたりもする。

夕方から渋谷へ移動。今月は4日連続で観に来てしまった渋谷らくご。今回は三遊亭青森さんの出番が二度ある回。トップバッターの春風亭朝枝さんは「のめる」。他の演者の同演目に比べて、八五郎の察しが悪いのが可笑しい。青森さんの一席目は「千両みかん」。冒頭の若旦那のくだりをカットし、番頭がみかんを探しに行くのもあくまでお店への忠義心。だからこそ旦那が千両のみかんを「安い」と言ったときの、番頭の挫け具合が情けなく切なくもある。柳家さん花師匠はゴッホへの熱量たっぷりの枕から「棒鱈」。田舎侍が脱力系でなよっとしているのが他の演者と違うアレンジでとにかく面白い。「あんちぇ…」という謎の呟きが耳に残る。めちゃくちゃ笑ってしまった。さん花師匠は古典落語に不思議なアレンジや奇妙な瞬間が入っていることが多くて、もっと他のネタも観たい。青森さんの二席目は「真景累ヶ淵〜宗悦殺し〜」で、声の凄みによって重い場面にぐぐっと引き込まれた。青森さんはとにかくあの声の迫力が強みだなぁ。三連休は落語を観てたら終わってしまった。

特別企画:
綿矢りさ「夜の日課は哲学ニュース」 302
「綿矢りさから「哲学ニュース」運営者へのQ&A ネット界隈の怪談クロニクル」 306

先日の「真山隼人ツキイチ独演会」についてのXの投稿に、曲師の沢村さくらさんからリプライが来た。僕が惹かれた隼人さんの長い高音について「節の終わりごろ、盛り上がる節を「あて節」と言いまして、隼人くんのその節は初代真山一郎が作った節です。「真山節」とか、「真山先生のあて節」みたいな言い方をしています」と教えていただく。なるほど、浪曲では特有の節回しもまた、師匠から弟子に受け継がれていくのか! 勉強になった。浪曲は聴く数を増やしていこうかなと最近思い始めたところなので、また隼人さんの独演会にも行きたい。

仕事の昼休憩は会社近くのベローチェで、食事はサンドイッチと飲み物だけで安く軽く済ませ、残りの時間で読書する頻度が近ごろ増えた。
今日は読みかけだった川端裕人、本田公夫『動物園から未来を変える ニューヨーク・ブロンクス動物園の展示デザイン』を最後まで読み切る。革新的な展示により、世界中の動物園からお手本のように見なされているというブロンクス動物園。その展示を担当する日本人デザイナーと共に巡りながら、動物園を作る上での思想と工夫を紹介する、という内容。展示を通じて自然保護・動物愛護の意義を学んだ来場者が、展示の最後に自分の払った観覧料をどの団体に寄付するか選択できる、という仕組みが興味深かった。一つの展示の中で、動物への興味を喚起し、愛護活動に関する学習を経て、実際に支援行動につなげるまでがワンストップで達成されていることに感心する。
とはいえ、単純に「ブロンクス動物園すごい!」という話で終わらない。例えば”動物たちへの福祉”と”展示としての見やすさ”の兼ね合いへの試行錯誤や、組織内の部署間での折り合いをつける難しさなど、優れたコンセプトやデザインを練っただけでは終わらず、それを継続しアップデートする実務レベルの部分にこそ大変さがあるのだ。せっかく来場者を驚かせる凝った装置を作ったのに、それをメンテナンス・修理できる業者が廃業してしまい、本来の意図通りの展示ができなくなった……という話など、ちゃんとガッカリ要素も書いてあるのは誠実だな、と思った(書籍刊行時には、装置の修理が無事に行なわれて、展示も元通りになったとのこと)。新型コロナ禍以前に書かれた本なので、今はまたここに書かれた状況から変わっているのだろう。

仕事帰りに図書館に寄って、文芸誌の気になってた作品を拾い読み。イニシャルに置き換えて書いてある人物について、多分あの人のことだな、と察しながら読むのは本来想定されている読まれ方と違うのかも、と知人が寄稿しているエッセイを読みながら考える。

帰宅後、『百年の孤独』を読む、マコンドに大雨と干ばつ。かなりのピンチで、これはさすがに滅んじゃうんじゃないか、マコンド。残り120ページほど。
文藝はまとめサイトについての綿矢りさのエッセイと、サイト運営者へのインタビュー。匿名の人々が持ち寄る心霊怪談と人間が起こす恐ろしい事件とが同列で並べられている、インターネット普及後の恐怖の消費のされ方の一側面を切り取るような記事。

創作:
八木詠美「プリーズ・フォロー・ミー」 310

午前中に八木詠美「プリーズ・フォロー・ミー」を読む。山手線の車内で、女性のスマホケースに貼られたシールが気になった主人公は、女性の後を追うが……という話。途中でなんとなく着地はこうなるかも、と予想は着いたが、この特集でこういう話だと主人公の視点から一人称で書いても良さそうなところを、三人称で書くことで主人公に対して少し距離を保った筆致に微妙な浮遊感があり、読者は女性を尾行する主人公のことを更に尾行させられているのだった。だとしたら得体のしれない存在は、主人公から見た女性でなく、読者から見た主人公か。

午後からもりたの家へ遊びに行く。近くのスーパーで集合。買い出ししてから家へ。もりたの家は引っ越ししてからちょこちょこ片付けはしたらしく、とりあえず、前回よりは物が整理された印象はあるが、まだ散らかっている。僕は部屋の隅に陣取ってあれこれ喋り、もりたは話しながら部屋の片づけを進めていく。「一人でやるより、喋り相手がいるだけでも掃除がはかどるわ」ともりた。引っ越し以降、物が上にいっぱい載ってて座れる状態で無かったソファが久々に座面を見せた。そこに腰掛け、テレビを見ながらだらだら過ごす。その間にもりたは部屋を順調に片付けていき、足の踏み場がだいぶ増えた。
すき焼きのタレが余っているから、ということで、晩御飯はすき焼き。豚肉、白菜、エノキ、長ネギ、油揚げなど。油揚げにタレが染みるとこんなに美味いのか!と驚く。あっという間に鍋が空になり、ご飯も消えた。もりたの家から僕の家は結構遠いので、遅くなる前にバスと電車を乗り継いで帰宅。

澤村伊智「さぶら池」 326

朝、家を出る前と会社へ向かう電車内で、澤村伊智「さぶら池」を読む。家業のラーメン屋を継いだ男の家族に奇妙なことが起こるが……、という短編。作者は確か映画『来る』の原作の人だったと思うのだが(原作は未読)、『来る』と共通して、個人から見えているものと周囲の認識が見事にすれ違っていることが露見するところに、恐怖を見るような話。起きていることは不条理なのだけど、主人公がこういう目に遭うことの作中での道理が最後に示されてしまうのはちょっとなぁ、という気持ちがある。

会社は毎年12月に海外旅行へ行っていて、今年は夏の業績が目標の90%を超えたら海外、下回ったら国内旅行にする、と社長から話がある。正直、国内旅行でいい。福岡とか。仕事は来週の半ば頃までにやらねばならぬ作業が増えたので、暇にはならなさそう。

仕事帰りの電車で、野坂昭如『とむらい師たち 野坂昭如ベスト・コレクション』を読了。生と性への執着、凄惨な戦争とその傷跡、生々しくグロテスクでえげつない話ばかりなのに、するする読み進められる軽妙でテンポのいい文体がすごい。我が子を殺した母親の心に刻印された戦時中のトラウマを、一人称・三人称混在の文章で描く「死児を育てる」が特にインパクトがあった。

怪談短歌:
我妻俊樹「雲から覗く顔」 388

朝のうちに『百年の孤独』を読み進める。409ページまで。急に勃発する大食い大会、大量の同級生が押しかけてきてしっちゃかめっちゃかなお泊り会など、変に過剰なエピソードが差し込まれて「なんじゃこりゃ」と笑いながら読んでいたが、アウレリャノ・ブエンディア大佐が死を迎える一日の丹念な描写に圧倒されてしまう。30ページ程ずつ読み進めているが、その短いページ数の間だけでも様々なことが起こって中身が濃い。

バスに乗って吉祥寺まで出る。
移動中の読書は、この暑い最中に分厚い文藝を持ち運ぶのは辛かったので、なんとなく蒸し暑い気候に合いそうだなという直感から、未読で積みっぱなしの野坂昭如『とむらい師たち 野坂昭如ベスト・コレクション』の文庫版を選んだ。野坂昭如の小説を読むのは初めてで文体に独特なテンポ感がありスムーズに読めるんだが、最初の二篇「浣腸とマリア」「マッチ売りの少女」がどちらも結構ギョッとする話で、気分がぐったりしてしまった。

吉祥寺で百年、防破堤、ついでにブックオフを覗いてから三鷹へ移動し、水中書店、りんてん舎。途中で天気が崩れ、雨が降る予報を見ていたので小ぶりな折り畳み傘を持ってきてはいたが、それでは対応できないくらいのゲリラ豪雨になって、服を濡らした。

今日は夜にもりたと演劇を見る予定で、もりたも既に三鷹にいたので、ドトールで合流する。駄弁りながら時間をつぶしてから劇場へ移動。もりたが他に誘っていた知人たちと合流して観劇。この劇団を観るのは2回目で、前回の公演が面白かったので楽しみにしていたが、設定やところどころのディテールなど面白いところもあるものの、上手くいっていないと感じるところも多く、期待を上回ってはくれなかった。
その後、近所の居酒屋で飲み会。「舞台、ちょっと上手くいってなかったね~」という話で盛り上がり、僕は酒を全然飲まないが他が飲むメンバーなので、テーブルの上にメガジョッキがどんどん増えていった。

終電間際で帰宅。さすがに全くページを開かないのはいけないな、と思い、我妻俊樹「怪談短歌 雲から覗く顔」を読む。「怪談短歌」と銘打っているものの心霊現象などをはっきり描くようなものではなく、読むと不穏なざわめきを感じる短歌が並んでいる印象。読み込むともうちょっと「怪談」である意図が汲めるのかもしれない。印象に残った一首はこれ。

鏡の庭のほうが賑やかだったからわたしもそこにいる菊花展

文藝2024年秋季号 389ページ

エッセイ:
升味加耀「健やかに生き延びるための呪いについて」 390

昼前に家を出て、渋谷へ。まずは松濤美術館で「111年目の中原淳一」展。「絵柄に見覚えあるな~」くらいの認識で行ってみたけど、雑誌編集や人形制作など、イラストレーションにとどまらないマルチクリエイターだったんだと知る。リメイクやアップリケなど、服をつぎはぎして補修する目的のものを、オシャレとして読み替える視点も面白い。

渋谷らくごの14時回。柳家小八師匠の「船徳」はなぜか途中で手ぬぐいでハチマキしてしまい、そのまま演りきってたのが可笑しかった。田辺いちかさんの「応挙の幽霊画」は絵を見て居酒屋のおかみさんの表情が変わるシーンが見事。市童さんは江戸っ子がいきいきして楽しい「天災」。よく見ると市童さんって、指が長くてキレイだな、というのが今日の発見。トリの文蔵師匠はゆったりじっくりの「道灌」。直前の「天災」と展開が被っている部分があるが、おそらく今日の終演後、お客さんの帰りの時間帯あたりで雨がふる予報だったのに合わせて、「雨具を借りに来る奴に断りの文句を言う」この演目を選んだのでは。

同じ回に来ていたわかしょさんがパルコの「ぼく脳展」に行くというのでついていく。様々な細かい思いつきをごっそり持ってきたようなスペースをうろうろする。わかしょさんと解散して、パルコを出たら雨が降っていて、傘を持っていなくて大急ぎで雨宿り先を探す人をあちこちに見かけた。道灌だ。

帰宅後、『百年の孤独』を566ページまで読んだ。どんどん人がいなくなる。

升味加耀「健やかに生き延びるための呪いについて」は劇作家のエッセイ。社会を覆う理不尽や痛みを、それを見ずに暮らせている人たちの前に恐怖として現前させるフィクション。それを見終えた後も、社会のあらゆる場所でその恐怖が目に入るようになってしまう、そんな呪いとしての演劇についての文章で、誰かが以前、「ホラーというのは、世界というのは実は自分が思っていたものとは全然違うものらしいということが明らかになる瞬間を描くこと」みたいなことを言っていたのを思い出した。

川端康成文学賞受賞記念インタビュー

「町屋良平が語る「私」と物語をめぐる新しい私小説」聞き手・構成 水上文 474

前日の夜、録画がたまっていた分の『虎に翼』を最新回まで見て夜更かししてしまい、変な時間に目が覚めてしまって完全に寝不足。ごろごろ横になりつつ、文藝の町屋良平インタビューを読む。町屋良平作品はちょこちょこ読んでいるけれど、ここ4年ほどの作品は追えていない。ここ最近はまたモードが変わってきているっぽいというのは、小耳にはさんでいるが。そんなに長いインタビューではないけど、フィクションより現実の「私」のほうがリアリティが薄い、現在は小説にも実用的な要素が求められてるのでは?など、色々と気になる論点があって面白かった。最近の作品も読まねば。

今日は、仕事がそこそこ忙しかった。合間の休憩時間で友田さんの『『百年の孤独』文庫版を読み進める。『百年の孤独』読了済みの状態だと、「え、そんなシーンあったっけ」とか「あれ、あのくだりはスルーなんだ」とか、自分自身と友田さんの読書の差異が浮かび上がるので、自主制作版を読んだときとは読み応えがまた違う印象。『百年の孤独』を知っていると、脱線していく瞬間がより楽しいし、脱線先もよく知ってるものだった場合、知ってる曲から別の知ってる曲へDJがスムースに繋げた時のような高揚感がある。具体的にはニカノル神父から小さんの「粗忽長屋」への繋ぎ方が、びたっとハマった感触があって楽しい。

新たな人間国宝認定のニュースがあり、京山幸枝若が浪曲師で初めての人間国宝に選出された。最近、浪曲をもっと見に行きたい気持ちなのでちょっと嬉しい。

連載

絲山秋子「細長い場所」【第6回】閉ざされたキャンプ 526

午前中に絲山秋子「細長い場所」第6回。連載ではあるけど、この回だけで単発でも読める。連作短篇なのかしら。どうやらこの世ならざる場所にあるらしいキャンプ場で、喋る馬に乗る話。おそらく死後の世界で、馬の躍動に生を感じる。

昼に下北沢BONUS TRACKへ。BOOK LOVER’S HOLIDAYの出店とB&Bを見て回る。B&Bの入口に友田さんのブースがあって少し雑談し、関口竜平『『『百年の孤独』を代わりに読む』を代わりに読む』を購入。B&Bのなかで少し涼んでから店を出る。夜が雨の予報だったのに傘を持ってくるのを忘れたから、一度帰宅し、風呂に入って少し休憩。折り畳み傘をもって、夕方から再び外へ。

夜はらくごカフェで笑福亭茶光さんの新作落語の会「新作ドロップ」。オープニングトークはゲストの昇々師匠の、新作落語の作り方について。「テーマは古典にないものを選び、構成は古典から借りて使う」「起承転結にしない」「共感を大切に」など、創作する上でのメソッドや軸がきっちり確立されている印象を受けた。それでいて高座はクレイジーで、今回もプレゼン前に尿意を我慢するネタ「決壊」で大暴れでめちゃくちゃ笑ってしまった。茶光さんのネタでは「オカンとサツキ」がすごい。「短いカットを矢継ぎ早につなげて、長い期間をエモーショナルに描く」という、例えばCMやショートムービー等で使われそうな手法を、上方落語の小拍子を使って表現する。梅雨時のネタということで、演じられるタイミングがかなり限られるらしいのがもったいないほどの良作だと思う。
落語会中から雷の音が聞こえていたが、会が終わって外に出ると物凄い雨。一度家に傘を取りに帰っておいて正解だった。とはいえ、雨が激しすぎて傘があってもかなり濡れてしまったが、地下鉄の駅へ何とか滑り込んで帰路へつく。

書評

吉本ばなな『下町サイキック』【評】古賀及子 556

昨日は夜更かしぎみだったのに、朝早く目が覚めてしまい、かなり寝不足。仕事は、ぽつぽつときた作業依頼に、のろのろと対応する。作業の数が多くなかったのが救い。合間に、Xのフォロワーさんと久々に遊びに行く約束をしたり。

眠いので、なかなかページが進まなかったが、『百年の孤独』を読み進めた。475ページまで。大量虐殺が隠蔽される恐ろしさにゾッとする。戦争とはまた異なる形態のジェノサイドだ。
文藝は書評を一本読む。吉本ばななも、もちろん名前や代表作のタイトルを知ってはいるものの、これまで読んだことがない作家。書評を読んだ感じ、”下町”ならではのほっこりした雰囲気の中に、何か不穏なものが入り混じったようなテイストなのかな、と思う。

山内マリコ『マリリン・トールド・ミー』【評】伊藤春奈(花束書房) 557

今日も今日とて、眠い。目覚ましがてら、文藝の書評欄を読む。『マリリン・トールド・ミー』は、以前アフター6ジャンクションでも紹介されていて気になっている。アトロクではマリリン・モンローに絞った特集だったけど、書評によると、マリリンからの電話を受け、彼女について調べ卒論を執筆する中で成長する主人公のパートも分厚そうで、読みごたえありそう。

午前中に仕事をいくらか片づけて、しばらく暇。我が社、業界全体の流れが変わってきているので、結構苦境なのではという話を同じ部署の人と噂する。細々とした作業を済ませて、定時で退勤。

帰宅後、録画してある映画の中から『Pearl パール』を観た。予告編の印象でもっとテンション高く激しい映画なのかと思ってたが、意外とゆったりしたペースの作品。人は血みどろでしっかり殺されはするが、いきなり驚かすような見せ方はあまり無いので落ち着いて見られる。戦争に感染症、家族の介護など、自分を田舎の牧場に閉じ込める要因に周りを取り囲まれ、抑圧されながら映画スターを夢見るパール。その痛ましさがそのまま人の形になったかのような、ミア・ゴスの存在感がすごい。もう取り返しがつかないことをやってしまった後で、いよいよ夢に手がかかるかというオーディションシーンでの「うーわっ…」となる展開は、何となく予想はしていたが最初の挙動からしてどうしようもなさがハッキリ分かる、あまりの冷酷さで唖然となって口あんぐりしてしまった。

古川日出男『京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る』【評】河﨑秋子 558

夏の賞与が出た! 昨年と比べて金額が減って残念。とりあえず先に家賃振り込みを済ませて、残りを貯金用口座と新NISA口座に振り分ける。お金が入って気を良くして、帰りは焼鳥屋に寄り道して夕食。で、店を出たらゲリラ豪雨。折り畳み傘の中に身を縮こめて、なんとか家に帰る。

友田さんの『『百年の孤独』を代わりに読む』の文庫版を読む。『百年の孤独』を読み終えた後だと、脱線する瞬間がより楽しく、脱線先が自分のよく知っているものだともっと楽しい。フェルナンダは未知やすえだったのか。
一方、もはや『百年の孤独』未読状態で読んだ自主製作版『代わりに読む』を、果たして僕はどのように読んだのか、その感触がもはや思い出せない。いくら脱線が面白いとはいえ、本筋である『百年の孤独』の中身を全く知らないまま読み進める体験は、どのようなものだったのか。いや、過去の感想はTwitterやnoteに書いてはあるのだけれど、それにしたっていまいち実感としては思い出せない。
とはいえ、最近読み終えたばかりなのに『百年の孤独』も様々なディテールを既に忘却し始めているのであり、『百年の孤独』も『代わりに読む』も「忘却」自体が重要な事象のひとつであった。現時点の感想も、『百年の孤独』も忘却したあとで『代わりに読む』を再読したら僕はどう感じるのだろうか。

文藝からは短い書評を一本読む。古川日出男『京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る』、なんとなく見知った情報から変な作品っぽいなとは思っていたが、書評を読んで更にその印象を強めた。読みたいが、古川日出男についてはまだ『おおきな森』や『南無ロックンロール二十一部経』といった、分厚すぎる積読が残っている。それをまず読め。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?