3月26日〜27日 第1巻『血頭の丹兵衛』
3月26日
昨日休んで、今日働けば、また明日から休み! しかも2日間!! その2日間は普通に土日なんだけど、ものすごく喜ばしい感じがして、来た仕事をテキパキと片づけていった。というか、僕の仕事は依頼が立て込んでバタバタするときと、何も依頼が無くて暇なときとで、日によって忙しさにかなりバラつきがあり、テキパキと片付けたところでデスクでぼんやりする時間が増えるだけであった。合間の時間を有効活用してなにかやりたいな~とも思うんだけど、今のところ特に手立てはない。
『俺の家の話』最終回、能楽とプロレスと介護と要素を詰め込みまくった上、過去のクドカン作品のセルフオマージュまでやりつつ、表舞台から去ることになる長瀬智也の「引退試合」的な意味合いまで完遂する凄さ。まさか最終回にして「木更津キャッツアイ」的な展開まで入り込んでくるとは。僕は『タイガー&ドラゴン』最終回で、どん兵衛が組長に対して小虎への想いを吐露するシーン見ると反射的に毎回涙が出ちゃうんですが、それはストーリー的な要素はもちろんだけどどちらかというと西田敏行の演技が発するバイブスによるものが大きく、今回の寿一・寿三郎の別れのシーンもまた西田敏行の演技に持っていかれた。あの圧倒的な熱量。
鬼平は『血頭の丹兵衛』に突入。『唖の十蔵』に登場した粂八が再登場する。粂八は平蔵の密偵となっていくキャラクターで、ドラマ版では蟹江敬三が演じている。ドラマ版はある程度1話ごと独立していたが、原作は今のところ流れが繋がっている設定で、連作短編という印象が強い。
平蔵は火付盗賊改方として悪を撃つ側ではあるのだが、単なる勧善懲悪ではなく、賊に対してもある程度個人として尊重していく点に面白さがあるなぁ。かつての親分である丹兵衛をリスペクトしている粂八の心情を平蔵は理解を示し、信頼して密偵を任せていくことになる。それでは平蔵は優しさに溢れた人物かと言えばそうでもなく、平蔵は以前粂八に対してかなりキツめの拷問を行なっているし、賊を問答無用で容赦なく切り捨てたりもする。人情と冷徹の両極を持ち合わせている鬼平は、シンプルなヒーローキャラというわけではないのだ。
3月27日
洗濯物干してたら新文芸坐の朝の上映に微妙に間に合わない時間で、どうしようかなーと思ってTwitter見てたら銀座で面白そうな展示があるというのでそっちに足を運んだ。その日の予定に対してのフレキシブルさ、フットワークの軽さは自分の好きなところ。まぁ思いつきのために上手く時間を使えない場面も多々あるんだけど。
蔦屋書店で「デザインの兆しのはなし展」に立ち寄り、限定配布の冊子を入手。無料配布ながら190ページくらいの、しっかりした作りの本。
それから資生堂ギャラリーへ移動して、「アネケ・ヒーマン&クミ・ヒロイ、潮田登久子、片山真理、春木麻衣子、細倉真弓、そして、あなたの視点」の展示を見る。「境界」をテーマにした女性作家の写真展。アネケ・ヒーマン&クミ・ヒロイの展示が面白かった。資生堂の広告を見た人がそれについて語った言葉だけを手がかりにヒーマン&ヒロイが写真を制作し、その写真から着想を得たショートストーリーを大竹昭子が執筆する、という込み入った手順の作品。売るために広告に付与されたイメージを商品から剥ぎ取り、視覚イメージそのものとして作り直した上で、新たな物語を乗せるというプロセスの中で、「記号・イメージ」と「メッセージ」との差分のようなものが浮かび上がってくる感じがある。
吉祥寺でZINEのイベントがあるのに気づいて迷ったけど、やっぱり新文芸坐の夕方の上映へ。市川崑特集で『あの手この手』『満員電車』の二本立て。特に就職難の時代を描いた風刺作『満員電車』は、以前から気になっていた作品だったので見られてよかった。人が溢れかえり、一度まともな職から落っこちてしまうとなかなか再就職はできない。かといって「まともな職」は何かというと、本当なら10分で終わるような伝票処理を(会社とはそうやって回っているものだから)フルタイム8時間かけてやるのだ、というある種のブルシットジョブであり、どちらにしろ充実した生の実感を得られない。そして誰もが病んでいく(精神病院すら満員!)、というのをあくまでブラックコメディとして描いている。冒頭、大人数でぎゅうぎゅうの大学卒業式の描写をヘラヘラ笑って見てたのだが、散々絶望的な社会像を描いた後、小学校の入学式で校長が「勉強すれば将来立派な大人になれるぞ」と子供に説いて終わったところで、背筋が凍る。
『血頭の丹兵衛』、後半は平蔵が登場せず、完全に粂八が主軸の話になる。尊敬していた丹兵衛は汚れてしまったが、彼の矜持を今も大事にしている者がいたと粂八は知る。ドラマ版ではそれをささやかな希望として描いていた覚えがあるが、原作では、その者もこの後、丹兵衛の失墜を知ることになると示唆されていて、ビターな後味で終わっていった。
これまでの作品では無かった、池波自身の現代に対する見解が突然登場するのも面白かった。
現代は人情蔑視の時代であるから、人間という生きものは情智ともにそなわってこそ〔人〕となるべきことを忘れかけている。情の裏うちなくしては智性おのずから鈍磨することに気づかなくなってきつつあるが、約二百年前のそのころは、この一事、あらためて筆舌にのぼせるまでもなく、上流下流それぞれの生活環境において生き生きと、しかもさりげなく実践されていたものなのである。
(『鬼平犯科帳 一』文庫p97)
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