見出し画像

読書感想文「行為の経営学の新展開」④

第3章以降は、行為システム論の中核的な概念や考え方について、より精緻に分析されていく。ゆえに、1・2章で抱いた疑問に各個答えてもらったような読後感である。

行為システム論の誤用と時間

第3章のカギ概念は「時間」。行為システム論を展開するに不可欠な要素である。要は、経時的な変化を重要視し、それをいかに捉えるか。典型的・伝統的な変数システム研究では、静時的な分析が中心で、時間の考慮があまり行われていなかったという。
もう一つ、行為システム論に対する「誤解」として、行為システム論は主に質的研究を念頭に置いた方法論であり、量的・変数システム/質的・行為システム、と二分できるという誤解が横行してきたという懸念がある。さらにいえば、沼上(2000)を引用しておけば、質的研究が一般性を欠くことのお墨付きになる、のような用いられ方がされてきたという。

こうした傾向を明確に否定し是正すべく、第3章では量的な方法を用いて行為システムを論じる。
 

行為のダイナミクス

改めて、行為システム論は「時間」を考慮しないことには成立しない。ある行為主体が他の<過去の>意思決定を参照し、「読み」を駆使して行為を決定する。それはまた意図せざる結果を生むのだけども、そうした結果を経て学習し、次の意思決定と行為に反映させる。
こうした連鎖を前提とするのが行為システム論ならば、こうした分析が静時的であってしまっては、意味がない。当然、動態を描く「ダイナミクス」でないといけないはずなのだ。
 
行為システム論にとって特徴的な概念に「戦略スキーマ」がある。これは、「競合他社や顧客の行動を解釈し、新たな製品コンセプトを創出する際に準拠する固有の思考の枠組み」である(p. 51)。
 
時間軸と戦略スキーマとを統合させると、たとえば次のようなケースが説明可能となる。ある時点では競争優位をもたらしたスキーマ/要因が、次の時期で劣位の原因となっている、というケースである(e.g., 尾田・江藤, 2019)。
 
そして、ある時期までのアメリカ経営学、特に経営戦略論は、静的な分析を中心としていた。パネルデータ使った研究いっぱいあるやんけ、というのはもちろんその通りなのだけども、たしかにポーターやバーニーのフレームワークはとても静的で、あまりダイナミズムを考慮してないようには見受けられる(だからこその「ダイナミック・ケイパビリティ」なのかもしれない)。

「時間」とは何か?どう区切るか?

かつ、ここからが重要なのが、たとえばなぜトヨタは/アップルは/イケアは…といったリーディングカンパニーによる競争優位を説明する研究が、パネルデータを用いてなされたとする。これそのものでは、行為システム論における時間概念を超克したとは言えない
なぜなら、行為システム論が焦点とするのは、ある期間―1年だろうが10年だろうが―において得られた競争優位、そのメカニズム、因果関係(的なもの)が解明されたとして、それが周知されてなお持続するのかどうか、を興味の中心としているからである。

これはまさに、経営学っぽい、戦略論っぽい思考だ。ある企業が勝てたとして、勝ち続けるのは至難の業だ。ヨソも放っておかない。つまり、行為システム論が問題とする時間とは、tを年ごとに区切るとかそういう問題なのではなく、ある意味では「戦略スキーマ単位」で経時的変化をみよう、という試みなのである。
 
話題は逸れるが、本書においてはカメラのデジタルへの移行であるとか、やはりエレクトロニクスが興味の中心となっており、その意味では技術経営を前提とした論理が展開される。こういった「日本企業を対象とした面白いケーススタディ」は、いつまで可能だろうか。
もちろんまだまだイケるはずなのだけど、「日本企業が活躍できている産業が限られている」みたいな懸念はあるだろう。なお、ここ20年くらいの日本企業は、はっきり言って調子が良い(清水, 2023)。 

組織は学習する

第3章における小阪の研究によると、統計的に有力な支持は得られなかったものの、概ね「学習を重ねると独自の戦略スキーマを発達させるようになる」という結果が推察される。学習を重ねるごとに、単なる模倣や同質化ではなく、創造的なオリジナルの戦略をとるようになるのだ、ということである。
この意味で、たとえば、ある業界において競合とみなされる10社の戦略を分析したとして、それらの「経験値」を考慮しないと、行為システムの連鎖はみえないかもしれない。企業の何を見るのか、という審美眼を教えてくれているような気がする。

個人も学習する

そして第4章のテーマは「ヴィーガン」である。対象に飛躍があって、突飛な印象を受けるものの、抽象レベルではたしかに地続きの議論が展開される。
第4章は、「主観」や「意味付与」といった、解釈主義的な側面をふんだんに用いており、比較的にそういった議論に仮託することを避けたようにみえる行為システム論研究においても、異彩を放っている。

第4章で古瀬が展開する議論は、ある意味で日常感覚を論理的に詰めて投影してくれたような感触を得る。
端的には、ヴィーガンとよばれる人々はヴィーガニズムという理念を掲げる。そしてもし、ヴィーガンと聞いて「ああ、あれか…」みたいにネガティブなイメージを想起したとすれば、たしかにヴィーガニズムを巡るあれこれは喧騒と係争にまみれてきた歴史がある。

信念、価値観

第8章の島本の表現を借りれば、ヴィーガニズムとは「安定的信念」である。それ自体が日本的なものと不釣り合い(に筆者は感じる)で、ときに理解困難なこととして、ヴィーガニズムは何らかの現世利益や、短期的効果を目的とはしていない
基本的には、動物に対する搾取を憂い、それが少しでも反省されること、実際に残虐な扱いや無駄遣い、まさに搾取が減っていくことをめざす、価値合理的な営みである。

ヴィーガンとか、やってて楽しいの?何の利益があるの?と問うのは、はっきり言って愚問であり、少なくとも建設的な答えは返ってこない。「そうあるべきだからそう主張する」のは、わりと当たり前のことであり、そういう前提で語る人々との対話に、日本人はあまりに不慣れなようにも感じる(ちなみに日本人がそもそも議論以前になっているのに対し、アングロサクソンが上手に対話しているわけではない。文献を見る限りではあるけども、めちゃめちゃケンカしている)。

ヴィーガニズムが最も活発に論じられているのはおそらくイギリスである。と同時に、イギリスでも揉めまくっている。ヴィーガニズムが、大勢への否定と行動変容を求めるからだ。
pp. 72-73の記述は、日本における様々な問題を考える端緒となる名文である。

倫理的消費を取り入れることは、現在享受している便益を放棄することであり、また、その倫理性に関しても必ずしも社会的な合意が得られているわけではないためである。

マイノリティ保護、ダイバーシティ、配慮、他者の不安の解消、ハラスメント、それらはたしかに倫理という強い後ろ盾を得てますます拡大解釈され、権力をふるっている。しかし、同時にある人の便益を毀損するものであって、社会的に合意もされていないようなことなのであれば、ゆうてわれわれが受容しうるわけもない。人も組織も、ただ右に倣うわけもなければ、法則に従うロボットでもないし、気分で動くネコでもないのだ🐈。

基準のあいまいさ、味方への攻撃

ヴィーガニズムの難しさは、攻撃が非ヴィーガンのみならず、ヴィーガンにも向くことがあるという点だ。似非ヴィーガン、にわかヴィーガンみたいな感じで、ヴィーガン内にもグラデーションがあり、それらのヒエラルキーや攻撃も当然起きている。むしろひとつの社会運動としてみるなら、そうした内ゲバこそが喫緊の課題ですらある。

さて、こうしたヴィーガニズムへの検討をふまえた4章の結論は、「ヴィーガンもまた行為システムのなかにあり」、「信念・正義に則った『攻撃』は意図せざる結果を生み」、「だからこそ、自身のヴィーガンに対する向き合い方や考えを変える」ということが起きていたことを、古瀬はインタビューから明らかにした。
一見すると頑な人々代表で、対話不可能な信念を有す人々であっても、また内省的に学習し、時間と共に行為を変えようとしていることが窺える、興味深い章である。

参考文献
尾田基, & 江藤学. (2019). 先行者と後発者による新市場理解の相違: 電動アシスト自転車の構造化プロセスを事例に. 組織科学, 52(3), 33-46.
清水剛. (2023). 労働生産性向上と経営者の役割. 運輸と経済= Transportation & economy, 83(4), 34-38.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?