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文学と経営学―虚構とクラスルーム

【題材】「死の影」と向き合う——近代日本の経営と文学
(東京大学ヒューマニティーズセンター主催オープンセミナー)

 もう2週間ほど前ですが、上記のセミナーに参加しました。経営学と文学の接点を探るという、学際的かつ意欲的なセミナーでした。私のnoteでも度々感想を述べている、清水先生著・「感染症と経営」の紹介および論点提示がされつつ、後半で対談するという形式のセミナー。

 経営学において近年、小説や漫画といった作品に注目する動きが見え始めています。
 私は勝手に「経営学と文学の接点」を「文学作品や創作物を資料として、経営学研究をする」という建付けだと理解していたのですが、参加者の皆様はまた違った視点から討論されていて、なるほどと思うところの多い研究会でした。以下、内容の私的まとめと、感想です。
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ポイント①:文学作品の集合性
 ヘンリー・ダーガーや宮沢賢治のような、ほぼ独りで創作活動を行い、死後発見されるような作家もいます。しかし多くの場合、作家は何らかの組織/集団に属しています。「文壇」は象徴的な概念であるし(まだ現代で生きている概念なのだろうか)、夏目漱石は朝日新聞という組織の影響を多分に受けていました。

 余談ですが、高校の時の国語の先生が「『こゝろ』ってのは、東大の先生やってたようなエリートが、新聞連載で下世話な恋愛話書くってのがウケたんや」と言っていたのが強く印象に残っています。このコメント自体が下世話なのはさておき、間違ってもいないだろうし、ある意味経営学的(?)論考であるともいえます。作品の内容そのものを吟味するというより、その社会背景や、読者に受容され売れていったプロセスに視点を拡張しようとする、という意味で。

 ということで、まず改めて、文学は、天才的個人に依存して展開されるように見えるのであるが、創作物はふつう非常に集合的な要素をもち、所属する組織やコミュニティに視点を拡張するべきであろう、というのが、セミナーで語られつつ個人的に注目した点でした。
 この手の話は、経営学のクリエイティビティの文脈でも、ある程度はされているようにも思います。「7人のシェイクスピア」という非常に面白い漫画があります(残念ながら長らくお休み中です)。シェイクスピアの作品は、実はウィリアム・シェイクスピアを含む7人の「分業」によって成立していた、とする漫画。おそらく史実上の根拠はないまさに虚構ですが、私的にはこの漫画はcollective creativityのお話です。

ポイント②:虚構であること
 
さて、面白いなあと思いつつ聞くなかで、以下の質問をしました。私はてっきり文学作品を資料として経営学を展開する、ということだと思い込んでいたので、ちょっとズレてる質問だなとも後で思ったのですが。

 小説は社会を反映したものであると同時に、小説が社会的なムーブメントを作るということもあると思います。曽根崎心中が流行ったことで心中が流行ったり。「私定時で帰ります」が流行ったことは、どう見るべきか、など。小説は虚構である、ゆえに資料として不十分だ、という意見もあるはずです。意図的な言説の形成が可能であるところ(小説はフィクションが多い)が、ポイントかなと思いました。

 そして、おそらくこのコメントへの返答の意味合いを込めて、とある方(A先生とします)からコメントいただきました(明らかな誤字があったので、一部修正しています)。

 小説をはじめとする芸術は、虚構だと言うことから形式的な意味で「自律性」を持っていると思います。それらと社会との関係は、ほぼ自律的に成立した芸術がいかに人々に「需要=受容」されることにかわってくると思います※。もちろん、逆の因果関係も重要ですが、やはりより重要なのは、「需要―受容」の側面だと思っています。
(※舟津注:かかわってくる、の誤字?。関係が、~~によって変わってくる、とも読める)

「虚構」をどう捉えるか
 まず、この自律性(自立性)というのが、文学においてきわめて重要な概念となります。つまり、虚構が許されるからこそ、文学には「自由」が存在するし、幅広い自己決定権があるのだ、と。
 極端な例でいうなら、文学では殺人も不倫も許容されています。クリーンな題材ではないですし、もちろん現実では実行が許されない反社会的行動なわけですが、文学においてそれらを題材とすることは自律性に委ねられており、かつ、優れた文学はその自律性を用いて、昇華させる力がある。
 かつて宮本輝氏がとある文学賞受賞作品に寄せていたコメントが印象的です。「これではただのポルノのようになっている。直接的な描写にとどまらず、そこに何か含意をもたせるのが文学ではないか」。

 また、京大名誉教授の日置先生による、非常に刺激的なタイトルの論文「経営学者は小説を読む」には、次のような一節があります。

 研究者が調達するのは真実ではなく、真実らしさに他ならないといえる。英語のリアリティはことばとしては真実ではなく、真実らしさである。真実そのものはレアルネスと表現すべきであるだろうが、それを問題とする研究者はほとんどいない。

 日置先生は、端的にはシンプルな「実証主義」を懐疑し、研究者が行うのはリアリティの調達に他ならない、と述べます。加えて、経営学における小説の「使い方」を示されています。
 第一次世界大戦頃のアメリカの工場労働者における人種比率を知りたいと思った。ところが、公式非公式問わず、どうやらデータが残っていない。そこで、デニス・ルヘインという作家の小説を読むと、黒人が劣位にあったことや、経営者側に黒人がいなかったことがわかってきた、と。
 これはデータとして事実を示すものではありません。しかし、こういう小説が書かれてそれが世に出て、ある程度評価と支持を得て、日本で訳されて読まれていること自体が重要で、そこにリアリティの調達があるのだと。虚構であるかに関わらず、それがリアルっぽいものとして世に受容されていることに注目すべきだ、と。

 つまり、虚構は虚構なのだけども、虚構が孕むリアリティにこそ意味がある。そして、文学は虚構であることを通して自律性を得る。文学も幾度となく規制や発禁などと闘ってきたとは思うのですが、だからこそ、「虚構であることが支える自律性」は文学の強みなのだろう、と。これは、事実が実証されるべきであり、エビデンスが必要で、虚構なんてもってのほかである科学(をベースとした経営学)にはない視点で、非常に面白い論点であろうと思われます。

ポイント③:需要―受容モデル、クラスルームモデル
 さらに興味深いことに、A先生のコメントを取り上げた司会の齋藤先生は、次のように述べられました。何かというと、「自律的に成立する文学はないと思う」というのです。齋藤先生の説明を私的に解釈すると、文学の自律性が否定される根拠は、以下述べるように、文学は小集団のなかでしか成立しないからです。集合性にも関連しています。

 齋藤先生は、文学とは「クラスの流行り言葉」だと表現します。学校のクラスですね。このクラスという表現が絶妙で、クラスは別に外界から遮断され、その活動が秘匿されている集団ではありません。でも、常に情報公開がされているわけでもない。保護者さんとか地域の人達とか、知りたい人にはある程度知れるようにはなっているだろうけど、その情報は粘着的で、簡単に外部にわかるようにはなっていません。
 で、クラスというのは、どちらかというと閉じられていて、社会に開けた集団ではない。そのクラスで流行り言葉ができる。ノリ、みたいなものとか、おもしろいフレーズがクラスで流行ることってありましたよね。で、そういう流行り言葉が、いつの間にかひょんなことで社会に出て行って、社会で流行るようになる。文学というのはそういうものだ、と齋藤先生は仰るのです。

 文学というのは、基本的にクラスのような小集団のなかで創生します。ローカルなのです。日本において最も文学が進展したのは明治期だと認識していますが、明治期の文学はたしかにローカルな同人活動によって発展しています。「たまたま」日本中で大売れ大ウケするような作品があったとして、その作品が生まれるのは常に同人サークル内なのです。さらに文学にはジャンルというものもあって、カテゴライズと棲み分けがかなり発達している。ゆえに、「クラスモデル」がより当てはまりやすいのだと推察されます。

 で、「需要―受容」に繋がる。文学というのは、自律性を旨として、「面白いと思うからやる」という非常に価値合理的で自己目的的な活動です。仲間内でウケることを目的として作られるもの。クラスのひょうきんものは、クラスでウケたらいいんであって。なので、活動は常に内向きだし、内々でウケればいいってものになっている。ただ、外部集団における何らかの需要にそれがマッチしたとき、受容され、普及していく。これが文学の根本的な構造であろう、というのです。

 少し、新たな視点が整理されてきました。虚構が支える自律性を旨として、文学は、小集団のなかで発達する。文学が生まれるのは常に小集団内である。その小集団と社会との繋がりは商業化と「需要―受容」によって発生する。
 こうした構造は、音楽などにも関連してそうです。商業化スキームは音楽の方がかなり発展してそうですが。漫画はどうだろうか。創造という意味では、企業の研究開発とも違うのだろうか、というか経営学もそうだろう、とか、などなど、思いつきがたくさん生まれる、素晴らしいセミナーでした。

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