見出し画像

早朝の、つれづれ

朝4時。彼は、元気なお年寄りだ。

軽快に鳴る爪の音。チャカチャカチャカ、、一心不乱に、前だけを見て進んでいると思ったら、草むらでピタッと止まり、集中して匂いを嗅ぐ。

まだ日が昇っていないので、あたりはまだ暗い。この街は、背の高い建物が少なくて、住宅と、畑が混在している、雑多なベットタウンだ。

寒い。どうして毛皮一枚、その上素足なのに、元気にせわしなく動けるのだろう。青い綱を持つ側の私は、白い息をはく。彼、実家のおじいちゃん甲斐犬のとなりで、道路の端っこにたたずむ。

「いこうか」

ある程度満足するまで嗅いだろうと、じいちゃん犬に呼びかける。

彼は、私が高校生の頃我が家にやってきた。父が、番犬が欲しいと田舎に伝えたところ、「柴犬なら」と叔父さんが連絡をくれて、家族で引き取りにいった。予想外だったのは、叔父さんの知り合いのブリーダーさん経由だったため、譲渡、ではなかったこと(お店よりは抑えたお値段だったが)と、その場にいたのは柴犬ではなく、熊のような黒茶毛の、甲斐犬の子犬だったことだ。

帰り道の高速道路のサービスエリアで、抱っこして立っていたら、通りすがりの男性に「熊みてぇ」と言われたことは、今でも思い出す。

「大きくなったね」

わたしは歩きながらつぶやき、空を見上げる。暗闇の世界に、寂しげな街灯がポツリポツリと地面を照らす。

彼の予想外の黒毛は、暗闇に紛れてしまうので、この光はありがたい。甲斐犬については正直、飼うことになるまで知らなかった。狩りの犬で、シュッとした体のライン。真上からみると瓢箪のような、凛としたくびれ。今でこそ、思い描いていた茶色くて丸っこい柴犬フォルムからは遠いが、田舎から離れて高速で4時間の街に連れてきた手前、一緒にいてもいいと思える飼い主になりたかった。

言葉が話せたら、君はどう評価してくれるかな。甘えていつまでもヒュンヒュン鳴く君に静かにしてほしくて、酢をシュッとあたりにかけてみたり、低い声を出して怒ってみたこともある。以前にも犬を飼っていた。しかし、その時の私は小さく、恥ずかしながらお世話にあまり関わっていない。子犬時代を一緒に過ごす経験は彼が初めてだった。本を読んだり、ネットサーフィンして犬の飼い方に関する情報をかき集めて、どう育てたらいいのか、ノイローゼぎみになったな。

泣きたくて、ひとりになりたくて、でもどこにいたらよいかわからないときに、外にある君のスペースにお邪魔して涙ぐんだこともあるなぁ。君は不思議そうな顔をしながら、ぐしゃぐしゃに歪んだ顔の私の側にいてくれた。まぁ、君の気分次第で、放っておかれるときもあった。

最初は私の腕を沢山噛んだけど、今は口を開けて噛むふりをするだけだね。君はわたしのことをどう思っているんだろうね。30半ばになっても、甘えっ子だと思っているのかなぁ。

ふいに涙が込み上げてきた。上から光を照らす街灯を眺める。少しぼやけてみえる街灯が、河川に沿って等間隔で並んでいる。

この涙は、何の涙なのだろう。

綱を握る本日の散歩パートナーがなぜか泣いていようがお構いなしに、おじいちゃん犬の君はマイペースで歩を進める。

チャカチャカチャカ・・

冬の朝。

夜通し干してあるのだろう、凍っていそうな洗濯物が視界にはいる。真夜中のベランダに整然と並んでいるのは、忙しくて、昼に干せないからかなぁ。なんて感想が頭の中をかすめるが、人様の事情だし、そもそも他人の洗濯物をガン見するのは不審極まりないので、隣を歩くじいちゃん犬に目線を集中させる。

あ。かがんだ。そしてかがみながら歩いた。

おい、待て。

お年を召してから、歩きながら用を足すようになった。散歩パートナーとしてその場で止まる。こんなこと言うのも変だけど、そのブツの状態で一喜一憂する自分がいる。ようし、今日も元気ですね。健康診断がてら、ソレを紙でくるりと包み、ジッパーに入れるパートナーの傍らで、君は追加でこぼす。

スッキリ顔の君。また歩き出す。

本当に、君がいてよかったと思う。君がいなければ、出会えなかった人が何人もいるし、日常の中に長く歩く習慣はきっとなかった。

家族との会話も、君のおかげでなりたっている。

(今日は残さずご飯食べたんだよ)

(ぐっすり寝てるよ)

君に関するたわいもない報告で、和やかな会話ができる。ずっと、何をしゃべっていいか分からなかった。家族の中で、学校であったことを話す習慣なんてなかったし、社会人になってから、仕事のことを話すのも気が引けた。自分について語ることが、ずっと苦手なままだ。でも、君がいるから、会話ができてきたように思う。

(おう、よかった)

君を一番大好きなのは、父だ。君が一番大好きなのも、父だろうね。

君の朝の相棒は、ずっと父。ふたりとも若いときは、映画がひとつ観れるくらいの時間散歩していたそうだね。君が途中でコロンと寝転んで、疲れちゃうようになって、だんだん距離が短くなった。

チャカチャカ、チャカ・・

いつもの相棒じゃなくてごめんね。今日は代理なんだ。いつも私は別のところに一人暮らしをしていて、週末にこっちに来る。

あ、だんだん疲れてきたかな。

おじいちゃん犬の君は、疲れてくると横に並ぶ。だんだん、後ろからついてくるようになるので、様子をみながらゆっくり歩いていく。

ねぇ、いつもの君の相棒も、今日ちょっと具合がよくないんだよ。なのに、「元気だよ」って報告するの。本当に元気な人は、わざわざそんな報告しないよね。わたしこれから、どうしよう。いつまでも自分のことだけ考えてるわけにはいかないよね。私自身の体力も、あの頃とは勝手が違うと感じるけど、それ以上に、会うたびに少しづつ静かになっていく、実家の空気が切ないんだ。

だんだん家が近づいてきたね。よく頑張った。よく歩いた。

君はちらっとこちらを見上げる。

うん。

帰ろう。

また、ウチのみんなと一緒に歩いてね。


#創作大賞2022

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?