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わたしを穿て、さかな

何をしても短歌に入れがち。青を見るとかならず頭をよぎる。ふとしたときにおもうのは、いつだって「さかな」である。

さかな きみが泳ぐのが海ならば わたしは果たして海なのだろうか

さかな、と心の中で唱えると落ち着く。さかなの字面を見ると、安心する(特にひらがな)。
それはまるで、元いた場所に帰るかのような感覚に近い。
さかなはきっと、わたしにとっては、ひたすらに安寧の象徴なのだと思ったりする。
水の中に体を沈め、耳元に泡が弾ける音を聞き、水をなめらかにかき分けて泳ぐその感覚と絵面を、さかなの三文字にいつだって託している。

そして、安寧の象徴である一方で、きっと憧れの対象でもあるんだと思う。
人間である以上、肺呼吸をしてわたしは一生を終える。肺呼吸である以上、潜るのにも泳ぐのにも酸素の限界がある。
生きるために必要な呼吸の仕方から、わたしとさかなは決定的に違う。
水族館の水槽とこちらを隔てるガラスに手をつく。そうして見上げた回遊魚の鱗は、いつだってきれいで、触れられなくて、ただ憧れだった。
人魚姫は人間の足に憧れたというけれど、わたしにとってはそのヒレが憧れだ。

そうして膨らんでいっているわたしの思いは―さかなへ託した気持ちは―、きっとさかなを「魚」でなくしている。
わたしがさかなを思う時、そのさかなは海洋生物としてのそれではない。
わたしの、平穏を願う気持ちと羨望のまなざしとを、こねて固めて作った祈りのようなものなんだ。きっと。

シナプスを泳ぐさかな 心臓にねむるさかな わたしを穿て、さかな

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