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明治立山炭鉱(佐賀県)の面影

佐賀県多久市、JR唐津線多久駅から北の立山地区に、大手資本の明治鉱業㈱が操業していた。明治鉱業㈱立山炭鉱である。大正期に操業を始め、戦後エネルギー政策転換後の石炭産業斜陽期まで、機械化による合理化をもって採炭を続け、1000名を超す従業員とその家族が暮らしていた。

炭鉱住宅を周囲に鉱業所があった丘は、娯楽施設や清掃工場などが進出し、背後に高くそびえていた巨大なボタ山は、今ではゴルフ場に姿を変えている。

かつて従業員が暮らしていた住宅地の一角に、炭鉱殉職者を慰霊する石碑が建立されている。その正面には立山炭砿殉職者鎮魂之碑と刻まれている。

背面には、閉山の記録と建立に関わった有志の芳名が刻まれ、組合長及び従業員と思われる居住者総員による奉仕と記録されている。建立は、会社ではなく、同じヤマの従業員の方たちによるものだった。

碑のそばには、同炭鉱での殉職者の芳名を記した石板と、祈りをささげる菩薩像も並んでいた。同じヤマで働く尊い仲間への想いを知ることができる。

付近の空き地には、かすかに残る鉱業所関連の遺構を見ることができた。

鉱業所関連と思われる施設の基礎が、草のむした丘の傾斜面から、その姿をのぞかせる。

また当時のものとおもわれる排水路と橋も。

文献によると、碑が建立されている場所は、かつて立山炭鉱で働く従業員向けに建てられた映画館の跡地だった。

明治鉱業㈱は、多久市内において高木川内地区に明治佐賀炭鉱、立山地区に立山炭鉱を操業していた。関連資料でその歴史を追うと、元は地元資本から始まり、のちに明治鉱業㈱が同坑を買収したとあった。
以下にその略歴を記す。

〇立山炭鉱の略記

大正 2年 立山鉱業㈱ 立山炭鉱を開坑
大正 4年 明治鉱業㈱ 立山炭鉱を買収 明治立山炭鉱として操業
昭和14年 明治立山炭鉱 休坑
昭和18年 明治立山炭鉱 再開
昭和38年 明治立山炭鉱 閉山 鎮魂之碑建立

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