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柏原炭鉱(素性不明・佐賀県?)の扁額
佐賀県唐津市厳木町浪瀬、ここに大変不思議な印象を覚える炭鉱の痕跡に出会った。浪瀬地区にお住まいの方にたまたま教えていただいた炭鉱に関するものだ。「確かに炭鉱があり、ここらで石炭を採掘した証拠が遺っている」と言われ、指示されたところに向かった。
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向かったところの道端を見て、大変驚愕する。しばらく呆然とした。その初見の際の驚きは言葉にできないものであった。お住まいの方から伺った証拠とは、このことだったのか。その証拠はガードレールの真下に忽然と、唐突に姿を現した。
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なんと、坑口の扁額が置かれていた。扁額だけである。そのいでたちと付近の状況から、なぜ扁額だけ?と首をかしげてしまう。炭鉱名・開坑年も明示されている。扁額だけ路肩に固定されて姿を遺している。
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詳しく観察するとA3サイズより大きめであった。炭鉱名と、開坑年月がしっかり刻まれている。一枚岩で設えた扁額だ。炭鉱名は「柏原炭鉱」、開坑年月は「昭和参拾年八月」とある。
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この扁額について素性を知ろうにも、手元の資料「石炭史・佐賀県石炭産業資料文書・文献編」に一切記録・記載がないのだ。しかも大変気なるもう一つの特徴が「第二坑」の添え字である。第二坑ということは、第一坑も開坑していたということ、それなりの採炭をしたものと想像してしまう。
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少しでも、この炭鉱の素性を探ろうと、厳木町付近の炭鉱と鉱業所名、開坑年月を同一の航空写真に配置してみた。開坑が昭和30年とあるため、短期の採炭として規模は小炭鉱の類であっただろう。周囲には古くからの大規模炭鉱から時を経て、中小の炭鉱が終戦直後昭和30年あたりまでに勃興しているようにうかがえる。この「柏原炭鉱」もそのひとつの炭鉱の気がしてならない。柏原という炭鉱名は、おそらくこの扁額の据えられている土地の名前だろう。付近にある防災用ため池の名前が「柏原」であったためである。据えられている道路については、航空写真からかつては開通していないようなので、道路を通した際に坑口を撤去し、坑口の所在を遺すため扁額だけを同位置に据えたと予想する。
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その強烈な印象と、素性不明の不可思議さ、忽然と姿を現す謎めいた様相をなす炭鉱の証拠、柏原炭鉱の扁額は、これからも同じ浪瀬ののどかな形式を眺めつづけているのだろう。今後もこの素性不明な炭鉱について調べていきたいとかんがえている。
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