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111 真夜中のチャイ

その日も残業して、ぎりぎり終電に乗って帰り、家に着いたら23時40分でした。
マンションのエントランスは、明かりがついていてもどこかうす暗くて、もちろんだれもいません。ポストを開ける音がずいぶん響く、静かな夜です。

部屋に入ったら、鞄を置いて、スーツをクローゼットにかけて、顔を洗います。
心なしか、水が冷たさをやわらげたような気がして、春を肌で感じます。

さっぱりした顔で、部屋着になって台所に立ちます。
冷蔵庫に手をかけたとき、こんな声が聞こえました。

今日の記憶がないな。

声の主は私でした。冷蔵庫につけているクロワッサンの形のマグネットは、半年前に行った美術展のチケットを止めています。

今日の記憶がない。
思ったとたん、おかしくなりました。

こんなに忙しくて、終電で帰ってきて、体も心もへとへとなのになんの記憶もないなんて。
おかしさとさみしさがこんなに似ているなんて。

なにか食べなくちゃ、と思うけれど、食欲は全くありません。
ごみ箱が目に入って、そう、割ってしまったお皿を捨てなくちゃ、と思いました。
全身を包む疲労感が倦怠感に変わりつつあります。もったりと重たい雰囲気が、どんどん体にまとわりついて、息苦しくなっていきます。

ベランダに出ることにしました。
こういう時は、新しい空気を吸ったほうがいいのです。
がらがら、と引き戸を開けて、ぱちん、とベランダ灯をつけます。
外の空気はややつめたく、夜空は濃い色でした。
星の気配を感じながら欄干にもたれて、そこから見える建物を見ました。
他の家の明かりは、視界に入る建物たちの四分の一くらい灯っています。

この明かりがついている部屋には、どんなひとが暮らしているんだろう。
頬杖をついて考えます。

目標を掲げて勉強をしている人、友達と話が弾んで眠れずにいる人、寝る前の読書をしている人、電気をつけたまま寝ている人…。
てんてんとついている明かりを見ながら、雲のように生まれては消える思いを浮かべました。

私は、なんのために働いているんでしょう。
日々、時間を消費してなにをしているのでしょう。
なにを得て、なにを失っているのでしょう。

私は、昨日も今日も確かに存在していたはずなのに、記憶がありません。
それは、ひどくむなしいことであるように感じました。


仕事があるだけでも、ありがたいことよ。

声が聞こえました。今度は、おばあちゃんの声です。

誰にでもできる仕事だって、いいじゃないの。誰にでもできる仕事を、ほかの誰でもないあんたに頼んどるんだから。

これは-
はっとしました。
空を見上げたけれど、そこにはだれもいません。
やや紫がかった紺色が広がっているだけです。

これは、私に向けられた言葉ではありません。
いつかずっと昔、祖母が母に対して言っていたのです。
私はたまたま、訳もわからず聞いたのです。

いつも明るく前向きな母。でも…
お母さんも、仕事をしながらむなしさを感じていたの…?

この感情は、もしかしたらみんな通る道なのかも知れません。
自分の時間がほとんどない日々。時折感じる、このままでいいのかという疑問。
また、声が聞こえます。

生きていくために働くのは、立派なことよ。

おばあちゃんの声のような気もするし、これまで出会っただれかの声のような気もします。
なつかしい、過去に存在した声。

そう、働くのは暮らしていくため。

今灯っている明かりの家に住む人たちの中にも、私と同じように記憶をなくしながら夜遅くまで働いている人がいるのでしょう。

夜だけではありません。
明かりが消えている家の人も、朝早くねむたい目をこすりながら仕事をしているかもしれません。子育てをしながら働いたり、何時間もパソコンに向かっていたり、レジを打っていたり、高いところに登って工事をしているかもしれません。みんな、一生懸命生きています。

救いはあるよ。

また、だれかの声が聞こえました。

あなたのした仕事で助かる人はきっといるよ。

空を見ても、やっぱりだれもいません。
でも、ベランダに出たときよりも星が輝きを増している気がします。


がんばろう。

そう決めてベランダ灯を消して、部屋に戻ります。
でも、やっぱり食欲は戻らなかったので、チャイを作ることにしました。
リキッド状のチャイをミルクパンに開けて、牛乳も入れます。
甘さ控えめのチャイなので、お砂糖も少しだけ。

弱火でことことあたためます。
ちちちち、というコンロの火の音を聞きながら薄茶色のチャイを見つめていると、また声が聞こえました。

―いつも親身に相談にのってくださって、ありがとうございました。
―悩んでいるときに声をかけてくれたのが、うれしかったです。
―応援してくださったから、がんばれました。

みんな、聞いたことのある声です。
私が仕事で出会った学生たち。
直接言われたことも、手紙をもらったこともありました。

正直なところ、私は100パーセント好きな仕事をしている訳ではありません。
でも、生きていくためには、やりたいこと以外のこともする必要があると思います。
だから、私はやりたいことではなくても、がんばれる仕事を選んだつもりです。

私の働く理由は、生きていくため。
そして私の救いは、これまで出会った学生たちでした。

私から卒業していった子たちの顔をひとりひとり思出だすと、自然と微笑みます。
それくらい、全力で一人一人と向き合った自信があります。
忙しくても、彼らがいるのであれば、ちっともむなしくない。
ようやく、そのことを思い出しました。


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できあがったほかほかの飲みものをマグカップにうつして、手紙が入った箱と一緒に居間に運びました。

こっくり甘くてやさしいチャイ。
ふぅふぅと冷ましながら飲んだら、身体中にしみわたって、体と心をほぐれていくような気がしました。
これまでがんばってきた自分へのごほうびに、極上のチャイと学生からもらった手紙。
こんな夜があってもいいよね。


今この瞬間だって、だれかの仕事に支えられています。
リキッドチャイを開発してくれた人、マグカップを作ってくれた人、マンションを建てた人…


記憶がなくなるような日だって、だれかは見ていてくれるはずです。
会ったことはないけれど、働いている全てのひとたちにそっとエールを送りました。


今回も最後まで読んでくださって、ありがとうございました。


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