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人にわざわざ言わないこと

元気そうな振りをしたり、いつもどおりに振る舞うことは私にとってそこまで難しいことではない。

彼氏と別れた時も、家族が崩壊しそうだった時も、流産した時も、父親が亡くなった時も、私は人前では「いつも通りの元気」を装うことができた。
我ながらすごいなと思うのと同時に、素直に人前で自分のダメージをさらけ出せる人を羨ましくも思う。

自分の心の機微を人に悟られたくないという深層心理が、泣き出したくなる自分に簡単に勝ってしまう。可愛げないなぁと思う。

そして思うのは、ここにいる人達みんな何かしら抱えているのかもしれないなぁということ。
街で私がすれ違う人達は、ただただ歩いているだけで感情など読み取れないし、どんな事情を抱えて今この場所を歩いているかなどわからない。

なんとなく憶測するけど、きっとハズレだ。
私みたいに巧みにダメージにバリアを張れる人間だっているのだ。

ある時私は、とてもおしゃれなカフェで食事をしていた。自分なりにおしゃれと思う格好をして、横にはエシレバターの紙袋。中にはエシレバタークッキー。傍から見れば、今日いちにちを優雅に過ごしている感満載だ。よく見かける光景の一部に私はいたと思う。
でも私はその時、自分の病気を告知されたばかりで絶望の淵に立たされていた。軽い気持ちで受けた検査で見つかったものだった。今日は結果を聞きに行くけど、きっと大丈夫だし、というか結果を聞きに行くことよりも寄り道の方がその日の私のお楽しみであり、そのうちの1つがクッキーを買うことだった。クッキーを買って、心の準備などせずに結果を聞いた。無抵抗に頭を殴られたような気分だったのだ。(その後精査をしてとりあえず治療を要するものではないことがわかったのだが…)
カフェで私は、「私の今の心境を言い当てることができる人なんて誰もいないだろうな。だって、おしゃれしてるし、エシレの紙袋持ってるし、優雅にカフェで座ってるし。」と思ったのだ。

もう1つ。私と母親は携帯ショップで順番待ちをしていた。きっと、傍から見れば「携帯選びに来た母親と付き添いの娘」といった感じに見えていたと思うし、そう思う人がほとんどだと思う。
でも実際は亡くなった父親の携帯を解約しに来ていたのだ。
「携帯の所有者が死亡したので解約したいのですが…」と言われた店員さんも、一瞬たじろいでいた。



そこにいる人がどんな事情を抱えているかなんてわからない。
「数日前まで元気そうだった」人が自ら命を断つことだってある。
どんなに心が弱っていても瞬発力を発揮して明るく振る舞うことなんて私には結構簡単だ。
「元気そうだった」を演出することなんて朝飯前。

私みたいな人が他にもいるかもしれないと思うと怖くなる。SOSを感じないと人は助けてくれないものだから。本当に大丈夫?って感じさせないぐらい完璧に振る舞える人だっているかもしれない。

だから幸せそうに見える人をやっかんだり、ましてや憎んだりすることって労力の無駄だなぁとつくづく思う。
大抵の人は何かしら人に言えない、言いたくない事情を程度の差はあれども抱えていると思うから。

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