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Nスペ「邪馬台国の謎に迫る」を見て

2024/3/17のNスペ「邪馬台国の謎に迫る」を見ました。僕はX(Twitter)やThreadsで感想を投稿しましたが、noteでも投稿します。

(トップ写真=イラストAC)


酸素同位体比による纏向の年代

番組では、箸墓古墳の年代は250年前後であり、卑弥呼の墓の可能性が高いことを印象づけていました。

僕は「箸墓は250年前後」には根拠がないことを2023/5/26のnote記事で詳しく解説しました。邪馬台国近畿説から、中国鏡、三角縁神獣鏡、炭素14年代測定による説が出されていますが、根拠はいずれも不十分です。

歴博は炭素14年代測定から、箸墓古墳の築造直後の年代を240~260年と発表しましたが、国際標準ソフトによる統計学的適合度は16%で根拠が破綻しています(上記記事の第1章)。適合度は60%が必要とされています。

番組では、酸素同位体年輪年代法によって、纏向遺跡出土の木材の伐採年が231年と特定されたことも紹介されました(上記記事の第4章)。

しかし、番組に登場した中塚武さん(名古屋大学)はまだ年代は確定できないという見解だと思います。番組でもコメントしていたとおり、測定試料が1点だけであるためです。

▶古墳時代の開始期の「布留0式土器」との一括性の高い杭列を多数分析し、そのうち唯一年輪数が30年を越える個体からはAD230年代前半の年代が得られた。…さらに年輪数の多い出土材資料の採取が待たれている

科研費研究成果報告(中塚武、2022/6/2)

▶纒向遺跡の遺構から出土した多数の杭材の提供を受けて酸素同位体比年輪年代の測定に取り組んできた。その過程では、大変興味深い年代も得られているが、まだ最終的な年代決定には至っていない
▶セルロース酸素同位体比による年輪年代の決定には、通常、年輪数が 30 年程度以上は必要なのだが、提供を受けた出土杭材の中で年輪数が 30 年を越えているものは1個体しかなく、その他の多くの杭材の年輪数は 20 年に至らなかったからである
▶その結果、多数の杭材の年代データの統合による確度の高い遺構年代を得るには至っていない

「纏向遺跡の出土材年輪年代決定に向けて」
(中塚武、『纏向学の最前線』p309~316(纏向学研究センター、2022年8月)所収)

中塚さんは年代はまだ確定できないことも取材でコメントしたはずですが、NHKが放送でカットしてしまったのだと想像しています。ネットを見ると「纒向遺跡が231年」に反応している人が多いですから、中塚さんは放送されてしまった以上、現段階の見解を改めて発表すべきだと思います。

さらに、年輪を使った年代測定には、伐採年が使用年代とは限らないという難しい問題があります。1つは、木材が他の建造物から転用された可能性です。番組では測定試料が「建築に使われた木材」としていました。それが間違いで、実際は水田の杭材などであったとしても、島根県大寺[おおてら]遺跡のように、掘立柱建物の柱材・壁材・はしご等が再利用された例はあります(上記記事の第4章)。再利用であれば、使用年代は伐採年よりも新しくなります。

もう1つは、木材が乾燥などのため、一定期間保管されていた可能性もあることです。

転用材や保存期間の問題は、年輪を使った年代測定の宿命とも言えます。纏向遺跡の試料は、これらをどう判断しているのでしょうか。試料がいつの調査のどこから出土した木材かも含め、詳しい内容が知りたいところです。

纒向の復元図は間違い

番組ではまた纏向遺跡の復元図が使われ、箸墓古墳と大型建物が強調されました。しかし、大型建物は箸墓古墳の年代には溝が横切り、廃絶していたことがわかっています。箸墓古墳と大型建物がいっしょに描かれているNHKの復元図は間違いです。僕は捏造といってもいいと思います。

『卑弥呼とヤマト王権』(寺沢薫、中公選書、2023年)口絵より。同書には下部に注記が入った。注記を入れればいいという問題ではない。「先後の関係」では読者はわからない

纏向遺跡を発掘・調査した関川尚功[ひさよし]さん(元・橿原考古学研究所)も述べているとおり(『畿内ではありえぬ邪馬台国』(梓書院、2020年))、箸墓古墳の年代に廃絶していた建物が、重要な建物だったかは疑問があります。

ヤマト王権の優れた土木技術

鉄球落下や水による古墳の耐久テスト、AIによる古墳発見はおもしろかったです。水害に強い土木技術が、ヤマト王権拡大に有利に働いたことは間違いないと思います。

僕はさらに古墳の周濠が寒冷な古墳時代に、水田の温水溜池として機能した可能性があると思っています。そのノウハウ(水田稲作技術)もヤマト王権拡大に寄与したのではないでしょうか。

狗奴国は東海?

番組では、卑弥呼の時代が画期となって、それ以降に前方後円墳が普及したとしていました(この個所は僕のX・Threadsの投稿は間違いです)。

ただし、狗奴国を東海・北関東・東北と印象づけ、その根拠を前方後方墳やパレススタイルの土器とする説明は疑問に思いました。

日本最大の前方後方墳は奈良県西山古墳です。ヤマト王権のおひざ元です。纏向遺跡は域外からの外来系土器の比率が高く、平均15%にも及ぶとされていますが、特に家ツラ地区溝では外来系土器のうち東海系が43%を占めて最多です(『卑弥呼とヤマト王権』(寺沢薫、中公選書、2023年))。

東海が狗奴国ということは、考古学的にありえないのではないでしょうか。そもそも、近畿以東の抗争で、中国に支援を求めることがあるでしょうか? 僕は違和感があります。

卑弥呼の外交戦略?

番組は中国の三国志研究者の説を採用し、卑弥呼は魏と呉のパワーバランスを利用して、魏から破格の待遇(親魏倭王)を得たとしていました。

僕はそれは机上の空論だと思います。結局のところ、卑弥呼は魏から大した支援は引き出せませんでした。黃幢[こうどう=軍旗]を贈られただけです。

卑弥呼の死後、政権は混乱しました。もともと政権基盤は脆弱であり、僕は卑弥呼の政権は狗奴国との抗争で滅ぼされたのではないかと思っています。

三国志は司馬懿(しば・い=高祖宣帝=西晋の創業者)に忖度して、公孫氏を倒して卑弥呼の遣使を実現した功績を、ことさら強調しただけではないかと思います。

古代中国では使いを送ってきた国が遠ければ遠いほど、大国であれば大国であるほど、皇帝の徳が高いとされました。倭国は「遠い南の大国」に脚色されました。2024/3/8のnote記事で詳しく解説しました。

なお、3/24のNスペ「ヤマト王権 空白の世紀」の感想はこちらです。

(最終更新2024/3/27)

#Nスペ #邪馬台国 #魏志倭人伝 #卑弥呼

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