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イースターで露見する成熟と未成熟

 昨日(4月9日)イースターでにわかに盛り上がったキリスト教界だけれど、「イースターは邪教に由来するから祝ってはいけない」と真顔で言うクリスチャンもいる。このバラバラ感もキリスト教界の特徴の一つだ。時として、同じ宗教と思えないくらい乖離している。

 イースターを否定するクリスチャンは大体クリスマスも「キリストの誕生日ではないから」というズレた理由で否定する(クリスマスはそもそもキリストの<誕生日>を祝うものではないのだが)。そんな彼らが重視するのはハヌカやヨム・キプールなどのユダヤの祭事だ。しかしそれこそキリスト教由来でなく、(イエスをキリストと認めない)ユダヤ教由来なのだが、そういった矛盾は無視している。

 キリスト教界で一般に認知されている祭事について、「本当は◯◯だから取り行うべきでない」と上目線に指摘するのは、「自分は皆が知らない真実を知っている」「自分こそ本物のクリスチャンだ」という特別感、優越感を持っていたい、知らしめたい、という自己実現的願望があるからではないだろうか。だとしたら幼稚な動機だと思う。もちろんその主張にしっかりした根拠があるなら別だけれど、上記のように矛盾を都合よく無視しているなら、巷の陰謀論と変わらない。

 イースターはキリストの復活を祝う祭事だ。その由来が邪教(邪教という表現は侮蔑的なので本来使うべきでないが、ここでは上記の主張に沿ってあえて使う)だろうが、「キリストの復活を祝う」意思と行動は、邪教と関係ない。それは間違いなく「キリスト教信仰」からくるものだ。

 イースターやクリスマスを否定する「正しいキリスト教信仰」論者は、「霊的」であることを重視する。あるいは「霊的」なものを重視する。なのでイースターの由来となっている(と彼らが主張する)「邪教の影響」を主張する。例えばイースターを祝う時、たとえそれが純粋な動機からであっても、目に見えない「邪教の影響」を受けてしまうのだ、という具合に。

 同じ理由でハロウィンに悪魔や魔女の仮装をすると「悪魔の影響」を受けると言い、初詣に神社に行くと(あるいは神社のそばを通るだけで)「偶像崇拝の霊の影響」を受けると言い、娯楽映画を見るだけで「堕落の霊の影響」を受けると言う。彼らに掛かればファンタジーものは「魔術の霊の影響」下にあるそうだ。なのにファンタジーものの代表作の一つである『ナルニア国物語』は、作者がクリスチャンだから良いと言う。

 イースターやクリスマスを毎年祝うクリスチャンは、彼らに言わせれば「浅はか」で、「世俗的」で、「霊的なことが見えていない」そうだ。しかし「悪魔の仮装をすると悪魔の影響を受ける」という判断の方が、ずっと浅はかで表層的ではないだろうか。「娯楽映画を見ると堕落する」と言う聖職者が教会のお金を使い込み、不貞をなし、家で妻で殴るのは「堕落」ではないのか。

 そういう実情を見ると、「霊的」という言葉がいかに聖職者側に都合よく働いているかが分かる。自分たちの未成熟さを覆い隠し、いかにも成熟しているように見せている。上記のようにイースターを否定する上目線な指摘にも、その未成熟さが現れている。

 その意味で昨日のイースターは、私にとってクリスチャンの成熟と未成熟について考えさせられる時だった。

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