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ネットで何を発信すべきですか?

「キリスト者としてどういう発信をしていけばいいですか?」

 という相談に対して、「人の受けより主の恵みを」とある人が回答するのを先日見掛けました。
 けれど人が見る(人しか見ない)ネットにおいて、「人の受けを気にしない」というのは意味があるのでしょうか。

 わたしたちはネットの(ブログやツイッターやYouTubeなどでの)発信において、意識的であれ無意識的であれ、以下のようなプロセスを繰り返しています。

発信 例:「○○のチョコレートが好きだ」

反応 例:まったく反応なし

評価・分析 例:だから何?って思われたのかな…

修正 例:少し有益な情報を加えてみよう

再発信 例:「○○のチョコレートはフェアトレードだから好きだ」

 反応(人の受け)を見て自身の発信を評価・分析し、修正し、さらに良い発信を目指す、というプロセスです。発信する人は多かれ少なかれこのプロセスを毎回しています。無意識的にやっている人もいるでしょう。

「人の受け」を気にしないとしたら、この「反応」以降のプロセスを丸々カットすることになります。評価や修正がない分、発信内容はその後も変わりません。アップデートも工夫も発展もありません(それでいい、という人も中にはいるでしょうけれど、その人が「人の受け」を気にしていないことにはなりません)。

 その発信がもともと優れた、それ以上手の加えようのない、それだけで何万イイネも付くような内容なら、それでいいかもしれません。けれどそういうケースは稀です。

 人気芸能人の「腹へった」とか「寒い」とかの何気ない一言が、ツイッター等で何万イイネを得ることがあります。それらは一見「人の受け」を気にしない、考えなしの発信のように見えます。けれど実際は、彼らは(あるいはマネージャーや広報担当者らは)日々のエゴサに余念がないでしょう。どういう発言がどういう反応を生むか、分析しているはずです。細かく分析しなくても気にしているはずです。
 またそこに彼らが人気者になるまでにかけた労力、捧げた犠牲が「下駄」として働いているのは言うまでもありません(大半の一般人にはその下駄がありません)。
 彼らは「人の受け」を気にしないどころか、それを第一優先としていると言えるでしょう。人気商売なのですから。

 人の受けを完全に無視するなら、ネットでなく日記に書けば十分です。そうでなくネットで発信するからには、「どうしても伝えたい何か」があるはずです。そして伝えたい何かがあるならば、人にどう伝わるか(受けるか、受けないか)を無視するわけにはいきません。むしろ積極的に受けを狙い、拡散したいと思うはずです。発信は拡散されてナンボなのですから。

「拡散など気にしない」「反応など気にしない」と言うのであれば、それこそネットを使う意味がありません。

「この世に迎合するな」とこの世に住んでその恩恵にあずかりながら主張するクリスチャンもいますが、この世の中で共感されてどんどん拡散されなければ、その「どうしても伝えたい何か」はどこにも伝わりません。せいぜい身内とその周辺にしか伝わりません。結果、意味のないことになって、その「伝えたい」気持ちは本当なのですか?  という話になるでしょう。「伝えたい」と言いながら、伝わっていないのですから。

 パウロが「ユダヤ人にはユダヤ人のように」と書いたのは、伝えたい相手がどんな状況でどんな事情を抱えているかを同じ目線に立って考えないと意味がないですよ、ということだと思います。
「人の受けより主の恵みを」と自分を高みに置いて、上から目線で見ている限り、何を発信しても届く範囲は限られるのではないでしょうか。

 わたしなりの結論です。
 どうせ発信するなら人の受けを気にして、受けないものは思い切ってやめて、何が受けるか試行錯誤を繰り返し、同時に自分がそれを楽しめるかどうか吟味しつつ(自分が楽しめないと続きません!)、より良い発信を目指して行きましょう。それはそのまま「伝道」にも言えることです。

 最後にもう一つ。
「キリスト者としてどういう発信をしていけばいいですか?」と他人に聞いている時点で、「積極的に伝えたい何かが自分にはない」ことを露呈しているのではないでしょうか。
「自分はこれを伝えなければならない」という確固たるものを持っている方が、結果的に充実し、長続きすると思います(経験的にも言えます)。
 ですからまず他人に対して問うのでなく、自分に対して「自分の使命は何なのか」と問うことから、始めるべきでないでしょうか。

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