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クリスチャンが奇跡体験を強調してはいけない理由

 クリスチャンの皆さんがネットで奇跡体験を発信するのを時々見る。「〇〇が癒されました」とか「△△が不思議と解決されました」とか。科学的にあり得ない、超自然的な方法で神様が自分を助けてくれた、という話だ。本人はその感謝や喜びを表したくてネットで発信するのだろう。他のクリスチャンを励ましたい意図もあるかもしれない。しかし私個人は、そういう話はネットで気軽にすべきでないと思っている。その理由を挙げていく。

再現性がないのに、あると思わせてしまう


 特に「〇〇が癒されました」系は、再現性の点で問題が大きい。病気で苦しむ人はそういう話を聞くと「自分もキリスト教の神様に祈れば治るかもしれない」とどうしても期待してしまうからだ。しかし同じように癒される(再現される)とは誰にも保証できない。そして期待させてしまった分、大きく失望させてしまう。残酷なことではないだろうか。

 例えば風邪をひいた人に「この総合感冒薬をのめば、数日以内に症状が軽快するでしょう」と医者が言うのは、標準医療に則っているし、実際に高い確率で再現される(再現性がある)ので、問題ない。けれど「これこれの病気が祈ったら癒されました」と言うのは極めて個人的な体験を安易に一般化してしまうことだ。本人にその意図はないかもしれないけれど、「祈れば癒される」と公言するのに近い。

 「どうして個人の体験を話してはいけないのだ」と反論したい人がいるかもしれない。けれど病気(特に重病)を患った人は必死なあまり、普段なら到底信じないようなことにも希望を見出してしまう。藁にもすがりたい切実な思いなのだ。誰が見るか分からないネットで「〇〇が祈ったら癒されました」と発信するのは、その切実な思いをもてあそぶことになり得る。

 それにもし、あなたの発信を見た誰かが「祈れば癒される」と希望を持ち、結果的に治療が遅れて死んでしまったとしたら、その死の責任の一端はあなたにあるのではないだろうか。

 信仰するのは自由だけれど、だからといって何を発信するのも自由だ、とはならない。「SNSでフォロワー向けに発信しているだけだ」という反論があるだろうけれど、鍵アカウントでない限り、あなたの発信は基本的に全世界に見られている。

被害を被る子どもたちがいる


 昔聞いた話。
 韓国で大きな大会があり、敬虔なるクリスチャン青年たちが徒歩で会場に向かった。しかし昨日までの大雨で川は氾濫。橋が通行止めになっていた。
 この川を渡らないと大会に参加できない。青年たちは祈り、「主が守って下さる」と信じて濁流に足を踏み入れた。結果、全員流されて行方不明になってしまった。

 聞いた話なので真偽は分からないけれど、十分あり得る話だと私は思った。
 この青年たちが愚かだったのだろうか。私はそうは思わない。彼らをそういう行動に走らせる土壌が教会にあったのだ。そしてより純粋に信じた彼らが、犠牲になったのだ。教会が彼らを殺したも同然ではないだろうか。

 こんな話もある(これは私自身がかかわった実話)。

 癒しや奇跡を文字通り信じる、福音派の教会で育った子が、進学と共に親元を離れた。学生寮で一人暮らしを始めたある日、体調が悪いと親に連絡したきり音信不通になった。心配した親が、その地域にある関係教会に連絡。そこの牧師が学生寮を訪れると、その子はひとり、聖書を抱えて苦しんでいた。

 休日だったし、近くの病院を知らなかったし、救急車を呼ぶ発想もなかったので、ひたすら「癒されると信じて祈っていた」らしい。 「癒しや奇跡は今も起こる」 「ただし疑うことなく信じきらなければならない」 などと教えられてきた結果だと、私は思った。

 その子はすぐ救急病院に運ばれ、そのまま緊急手術になった。 「祈れば癒される」「今も奇跡は起こる」系の主張は、いつかこういった事態に繋がる。大変な事件にも発展しかねない。そしてその犠牲になるのは、まだ判断力が十分でない子どもたちや、立場の弱い人たちだ。教会の大人たちはこういう事態にちゃんと目を向けなければならない。

語る相手とタイミングは慎重に選ぶべき


 クリスチャンの奇跡(と思われる)体験談は、教会の中なら「本当のことを言っている」前提で聞いてもらえる。しかしそれは普通のことではない。一般社会では、例えば「癌が癒やされた」と言ったらまず疑いや奇異の目が向けられる。変人扱いされたり、高い壺を売りつけられるのではないかと警戒されたりする。

 善良なクリスチャン諸氏には想像できないかもしれないけれど、平気で嘘をつくクリスチャンはいる(そもそもクリスチャンのモラルなんて全然高くないと私は思っている)。彼らは「死人が生き返った」などと平気で言うし、平気で人を騙す。あなたがネットで安易に発信した奇跡体験は、そんな彼らの片棒を担ぐことになるかもしれない。一般の人には、彼らとあなたの違いなど分からないのだから。

 それに加えて、奇跡体験は極めてプライベートで、デリケートなものだ。
 あなたは「主の栄光を表したい」という純粋な動機でそれを語りたいのかもしれない。けれど大切なのは、あなたがどういう動機で語るかでなく、相手がそれをどう受け止めるかだ。

 相手はもしかしたら「自分にそういう体験がないのは不信仰だからだろうか」と卑屈に思うかもしれない。あるいは「なんだ、結局信仰自慢かよ」と腹を立てるかもしれない。あるいは「自分も祈ればそういうことが起こるだろうか」と再現性を期待するかもしれない(濁流に足を踏み入れたあの青年たちのように)。

 だから奇跡体験を語りたいと思った時、あなたが真っ先に考えるべきは、「相手にどういう影響を与えるか」だ。そして誰が見るか分からないネットで、相手に与える影響を想定するのは不可能だ。その意味で、非常に無責任な行動だと私は思う。

気のせい/勘違いかもしれない


 最後に補足。
 クリスチャンが話す奇跡体験の中には正直、「気のせいなのでは」「単に偶然なのでは」「クリスチャンでなくても起こるのでは」と思うものがある。

 例えば行政窓口で申請した手続きが、普通なら一週間かかるところ三日で済み、結果的に都合よくスケジュールが運んだ、というのを「主が働いて下さった」と喜ぶクリスチャンがいる。しかしそういう手続き上の齟齬は良くも悪くも日常茶飯事だし、クリスチャンでない人にも起こる。本人が「主が働いて下さった」と感謝するのは自由だけれど、「奇跡だ」と断言することはできない。

 「自分がそう信じている」ことと、客観的、科学的に「奇跡と言えるかどうか」は分けなければならない。けれど、そこを分けられないクリスチャンが多いと思う。

本当の奇跡とは


 本当の奇跡とは、例えば社会の隅に追いやられているマイノリティの存在に気づいたマジョリティが、その問題に自分のこととして取り組んだりすることだと私は思う。誰にも顧みられなかった人が、誰かに目を留められ、手を差し伸べられ、抱きしめられたら、それ自体が癒しではないだろうか。

 自分の身に起こる何かでなく、自分が誰かのために起こす行動こそが奇跡だ。私はそう思う。

 その意味で、「奇跡は今でも起こる」という言い方は正しいし、むしろ私たちクリスチャンは積極的に起こしていかなければならないと思う。そしてそういう奇跡なら、どんどんネットで発信していってほしい。

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