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世界は今日も変わらず動いている

 311を期に私の教会は変わった。
 被災地支援ボランティアに明け暮れ、教会の関心は311に集中した。ネットで全国の教会に支援物資の提供を呼びかけると、教会はすぐに支援物資で一杯になった。

 ボランティア中の写真や動画が現地ですぐにアップロードされた。教会のFacebookはスタッフが炊き出しする姿や、被災者に物資を手渡す牧師の姿、どこまでも瓦礫が続く海岸線、「ご自由にお持ち下さい」と張り紙された乳幼児の衣服の山積みの画像などで一杯になった。ちなみに被災者に物資を手渡す牧師の姿は、アングルとタイミングを指定されて私が撮ったものだ。

 初めの一ヶ月は支援物資の配達に終始した。次の一ヶ月は個人宅の瓦礫撤去。次の一ヶ月は被災児のための「子どもフェスティバル」。その後は被災者が誰も来ない「復興支援コンサート」や、被災者への(目的がよく分からない)インタビュー、駅前での伝道活動など。必要性を明確に説明できる活動から、徐々によく分からない活動へ推移して行った。全国から集まったはずの支援金がどこでどう使われたかは、今も分からない。

 半年くらい経つと、牧師は復興支援を事業化しなければならない、と言い出した。被災地のホテルを買い取って身寄りのない子どもたちの住まいにしようとか、放射能汚染の心配のない水耕栽培を始めようとか、高地の物件を買い取ってミッション・センターにしようとか、そのために有名企業から多額の寄付金を得ようとか、志は立派かもしれないけれどどこまで本気か分からない話を、礼拝説教で毎週のように語るようになった(この頃から、礼拝説教で聖書を全く引用しなくなった)。

 私たち信徒は熱の浮かされたようだった。教会が多方面に事業展開し、多くの被災者を救い、大金が入ってくれば、今のこの苦労が全て報われるのだ、と信じていた。だから牧師が出張に次ぐ出張で教会を空けることが多くなり、お金の使い方が明らかにおかしくなり、なのに教会スタッフの給与が支払われなくなっても、疑問の声を上げなかった。今はみんな大変だけれど、もう少し忍耐すれば、神様が全てを報いて下さる……と信じていた。「涙とともに蒔くものは、喜びとともに刈り取る」と書いてあるでしょう? と。

 しかし企業からの寄付金は一向に入らなかった。今月入るはずが来月に延ばされ、来月には再来月に延ばされ、再来月には「諸般の事情」で無期限に延ばされた。これは試練だ、と牧師は言った。私たちは主に試されている、最後の最後のギリギリまで耐えなければならない、主が良しとして下さるその時まで。
 果てはIMFが動いているとか、別の海外企業と交渉中で手応えを感じているとか、牧師はあくまで希望を語った。私たちはそれさえ信じた。他にどうすることができただろうか。

 同時に語られたのが「終末の到来」だった。東日本大震災と同じレベルの震災がもう一度日本を「揺り動かす」、と牧師は言った。そして患難時代が到来するのだ。私たちは早く高地のミッション・センターを準備して、可能な限り備蓄して、患難の7年間を耐え忍ばなければならない。お金もなく、疲れ切って、もはやまともに考えられなくなっていた(と今なら分かる)私たちはそれでもお金を工面し、大量の水や食糧を備蓄し、時間を惜しんで働いた。「24時間戦えますか」の精神はリゲインに負けていなかった。

 しかしそんな上へ下への騒ぎの中、突然事件が起きた。牧師の不正が次々と発覚したのだ。全てが崩壊した。私の生活、人生を支えていた強固だったはずの地盤はいとも簡単に崩れ去った。続く数ヶ月のうちに教会は解散し、「神の家族」は訣別し、あとには何も残らなかった。

 当然、「終末」は来なかった。

 ある日、私は街中を歩いていた。よく晴れた秋の日だった。人々は行き交い、パチンコ屋の店先は騒々しく、マクドナルドからポテトフライが揚がるメロディが聞こえた。古着屋では高齢女性たちがこれはどうだいと話し合っていた。私はなぜか突然、夢から覚めた気分になった。世界は今日も変わらず動いている。そう思った。人々は働いたり食べたり、笑ったり怒ったりしている。私たちが勝手に終わらせようとしていたこの世界は、しかしそんな思惑とは関係なく動き続けている。そうか、これが現実なのか、と私は思った。

 終末を迎えたのは世界でなく、私の教会だった。そして私の中の何かだった。そう気付いた途端、見慣れた街がどこかよそよそしく映った。

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