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「いる」のに「いない」ことにされている

 看護師になりたての頃、一般病棟で勤務していた。日勤はまだしも夜勤が辛かった。夕方からずっとバタバタして、夜になっても落ち着かず、深夜も油断できない。仮眠時間はほぼない。朝方は若干の吐き気や眩暈を覚えながら、同時に一種の興奮状態にもあり、いつも変なテンションで勤務を終えていた。

 深夜の巡回中にトラブルを発見するのが辛かった。便が漏れている。点滴が漏れている。熱が出ている。嘔吐している。転んでいる。そんな時は不謹慎ながら「見なかった」ことにしたかった。「そんな問題は存在していない」と。もちろんそんなことはできないので、夜中に飛び散った吐物を処理したり、懐中電灯の乏しい光の下で血管に針を刺したりした。問題として「ある」ものは、間違いなくそこに「ある」のだ。

 ところが「ある」ものが「ない」とされる場合がある。例えば私の吃音症は、概念としては認知されているかもしれないけれど、日常生活レベルでは誰も「ある」と思っていない。店員さんも駅員さんも銀行の窓口担当さんも、私が普通に喋れると思って対応する。私が吃って用件を言えないと、大抵の人は「なんだこいつ」みたいな顔をする。吃音は「ある」けれど、実際には「ない」のだ。

 2018年以降、日本でトランス差別言説が急増している。
 性自認は「自称」にすり替えられ、「女だと自称する男が大挙して女性スペースに侵食してくる」という脅し文句で、トランスの人々が日々攻撃されている。しかしそこにトランスのリアルな生活実態はなく、当人たちの声は聞かれず、文字通り「いない」ものとされている。代わりにそこに「いる」のは「トランスジェンダリズム」の名の下で悪魔化され、犯罪者に仕立て上げられた、架空のトランスジェンダー像だ。

 トランスジェンダーの「問題」が女子トイレや公衆浴場の話に限局され(つまりトランス女性だけが危険視され、その裏でトランス男性は無視され)、トランスの人々がもっと深刻に困っている諸問題(医療や教育や就労など)の話が完全に抜け落ちているのが、トランスの生活実態が全く無視されている証だ。自身のアイデンティティに関わることで深刻に葛藤し、困惑している人たちが、一日中公衆トイレや公衆浴場のことばかり考えているはずがないではないか。

 『反トランス差別ZINE われらはすでに共にある』を読むと、トランスの人たちの生活実態がわずかではあるが垣間見える。その少数の実態だけ見ても、ネットで声高に語られている女子トイレや公衆浴場の問題からかけ離れた、より深刻で困難な問題に直面していることが分かる。なのに彼らは「いない」ことにされているのだ。本当はずっと、私たちと共に「いる」にもかかわらず。

 本書について語り合う読書会を開く(詳細は下記)。トランス差別言説にどう対応したらいいのか。反トランス差別のために何ができるのか。私たちは語り合い、行動しなければならない。

ダンとふみなるの読書会(第4回)ポスター

ダンとふみなるの読書会(第4回)
日 時:2023年4月23日(日)20:00-22:00(Zoom開催)
課題本:『反トランス差別ZINE われらはすでに共にある』
参加費:無料
参加申込フォーム↓
https://forms.gle/25dzc662XvPE2hmt6

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