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大人になるということ


涙するという行為は作業だ。


例えば

学生の頃は

ぼけーっと今日給食なんだっけとか考えてたら

誰かが急に顔を隠して

クラスを飛び出して行って、

全員がぎょっとした雰囲気になったところで

2、3人がその子を追いかけて行って

そしたらなんか違うところで泣きだす人がいて

え、何があったの?ってはじまる。

みたいな

泣くということはそれはもう大事件だった。

笑笑。



それが今はどうだろうか。

小学生の頃膝によくあった

あのぐちょぐちょの傷に絆創膏をして

久しぶりに剥がしてみたら膿だらけで

膿搾り出してまた絆創膏を貼って

またしばらくして見てみたら膿だらけで

搾り出して、貼り直して、

その作業を繰り返すような。


日頃ふとした時に

胸の底にある苦しみがやっほーと顔を出す。

その度にご挨拶がてら涙を流して

じゃあまたねーって奥底に押し込んで

明日の朝ごはんを考える。

もはや飼い猫に餌を与える様な

作業のような感覚だ。


誰かにその涙をみせて騒いだところで

何も解決しない。

そもそも解決するものに

涙は流れない。

これが大人になるということなのだろうか。



つらいこと、苦しいことがあったら

ひとりで抱こまず相談しましょう。


これはよくない。

相談して解決されるものは軽傷だ。

さっきのクラスのやつみたいな。笑



本当に苦しい思いをしている人間には

相談すれば何か道があるかもしれないという

淡い希望を抱かせておいて

結局他人には何もできないという現実と

さらなる絶望をつきつけられる。



希望がなければ絶望はない。


希望がなければ諦めるという選択をとれるのに

誰かに頼ればとかいう淡い希望を抱かせるから

いつまでも苦しみ続けてへし折れるか

蓋をして飼い慣らすかの苦しみが待っている。



だから、本当に苦しそうなあなたに

相談してね、が言えない。

相談してくれたところで

私にはあなたの苦しみを

完全に拭うことはできないという絶望を

改めてプレゼントすることになるからだ。


本当に苦しいということが

どういうことか痛いほどわかっているのに

なんならあなたは

そんな私より痛いかもしれないのに

不甲斐ない。

面目無い。



私があなたに言えることは、

苦しみは消えないから

自分の力で向き合って受け入れて

飼い慣らすしかない。ということだ。


さらに特典付きで、

蓋をして飼い慣らしていると

膝の傷を庇って足を引きずっていることが

当たり前になって

普通の歩き方がわからなくなってしまう

ということだ。


大人になって、

こんなようなことが段々わかってきた私は

子どもに何が伝えられるだろう。



ただ一つ伝えられるのは、

逃れられない苦しみは

アンパンマンでいうところの

バイキンマンから与えられるのではなく


アンパンマンから与えられるものだ。


そして、飼い慣らすことができれば

足を引きずってしか歩けないし

健康に歩けてる時よりきっと味覚鈍ってるけど

一応食べ物は美味しい。



注⚠︎) 決して病んでないポジティブな文章です。





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