今ここにあるもの、を活かしたい
書斎のある古民家での暮らしを目指して、これから改装計画を練っていくことになるのだけれどその前に、今ここにあるものは何なのか?を言語化してみたい。
目の前にある光景をそのまま言ってみると、狭くはないけれどたいして広いわけでもない土地があって、草木がぼうぼうになってしまった内庭と外庭があって、コの字型に古い和風の平屋が建っている。
コの字の端っこから家の中へ入っていくとまず玄関と応接間、ついでリビングとダイニングを兼ねた和室とキッチンがある。さらに洋室を挟んで、中央には水回り(トイレ、風呂、洗面所、洗い場)がまとめられていて、その奥には倉庫と和室がある。
ざっと見てみると、元々の物件の機能としてはこんな感じ。
しかし、それだけが「家」ではないはずだ。
まずなんといっても、奥の和室のいい雰囲気。内庭に面した縁側、雪見障子、畳の部屋には床間と違い棚、いわゆる和室の趣がひと通りある。こだわった装飾があるわけではないけれどもシンプルに美しい一室。ここはなるべくそのまま残したい。
水回りはタイルが剥がれたり水漏れがあったりで、さすがにそのまま使うのは厳しそうだけれど、家の中央という位置取りは理にかなっているなあと思う。
内庭は荒れてしまっているものの、いくつかの樹や植え込みがあって、沓掛石に手水鉢、灯篭もある。日本庭園を再生するのは難しいかもしれないが、部屋の中からも外の道からも見える場所なので、プライバシーを確保しながら来客も迎えられる庭にできるとうれしい。
そして立地と環境。徒歩でいける範囲にスーパーや駅や役所がそろう市街地のわりには、ちょっとした山の上にあるので幹線道路の騒音などはほとんど届かない。隣の畑や森の緑が目に優しく、風が季節を運んできてくれる。自然と街とのあわいの、ほどよい距離感で暮らしていけそうだ。
古いものというのは、誰かが使って残したものを、また他の人が良いなと思って大切にして、それをまた次の人が良いなと思って活用する、その連続したつながりの果てに、今ここにある。
ただそうして後世に受け継がれていくのは、たいていは「特別に」良い質や価値を持つものだけだ。「普通に良い」程度のものは、むしろ誰かが意識的に残さないと消えていってしまう。
とくに昭和・平成と時代が急激に変化していくなかで、それまでの日本に普通にあったものは、見向きもされずに淘汰されていった。そうしていつしか「無難な」ものばかりが日常に溢れるようになってしまった。
でも多くの人が望む暮らしというのは、「普通に良い」生活を普通に送れることではないのだろうか。
フミクラの建物は、古民家として特別に貴重なわけでも、とても年季が入っているわけでも、洗練された設えがあるわけでもない。おそらくひとむかし前までは、あたり前に建てられていた町家のひとつなのだろう。
でもそんな普通の家を何十年と大切に使いながら、この街で暮らしてきた人たちが確かに居た。
今ここにあるもの、それは普通の生活の面影なのです。
2024/06/04 改装予定の図面とにらめっこしながら