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いい感じの庭をもとめて

自宅に庭があるというのは、それだけでも贅沢なことだと思う。
草刈りとか手入れとか大変なことも多いだろうけれど、日々暮らしていくなかで自然がすぐそばにあるというのは、人間にとって実はとても大切なことなのではないだろうか。


大都会で朝から晩まで働いていたころ、とくに冬場などはまだ暗いうちに家を出ることになって帰りも当然真っ暗だったので、太陽の光を浴びるのはほとんど昼の休憩時間だけなんてこともあった。
昼飯を食べたら近くの小さな公園に立ち寄ってただぼーっとする。気休めでしかないかもしれないがそれだけでも心が安らいだものだ。

いま住んでいるところは田舎ではあるものの、市の中心街なので家や店だらけだ。でも少し外に出れば、豊かな自然がたくさんあって愉しい。
家のすぐ近くには神社の森があってたまに散歩に行く。近くのきれいな川は魚や鳥たちの楽園のよう。車で1時間ぐらいかかるが、清々しい白浜が広がる遠浅の海にも行ける。

自然の不思議や驚きに対する感性を、センス・オブ・ワンダーと呼んだ人がいる。引っ越してきて数年が経ってようやく、太陽の光や森の湿度に慣れてきた気がする。川や海の心地よさもわかってきたと思う。生活のなかでこういう感性を少しずつ取り戻せているのはとても嬉しい。自然も街中も、身の回りにはすてきな風景がたくさんあるので、また紹介していきたい。


……などということで、自然の良さから庭の話につなげていこうと思っていたのだけど、6月下旬になってだいぶ遅めの梅雨が訪れたところで、なんとエアコンが壊れてしまった。冷房18℃とかにしてもぜんぜん冷えないので思い切って止めて、扇風機と扇子でなんとかしのいでいる。

マンションの部屋の中は、気温は28℃ぐらいに保たれていてこれは耐えられるのだけど、湿度が常に70%を超えているせいでとにかく暑苦しい。湿気が身体中にまとわりついて、窒息するような感覚になる。快適に暮らすには風通しと湿度のコントロールがいかに重要か、身をもって体験する羽目になった。


現代の住宅は、自然を徹底的に制御して快適な空間を作り出すという、外界に「対抗する」人類の叡智の極みであるとは思う。雨風や暑さ寒さをしのぐことからはじまり、地震など災害への対策はもちろん、獣や泥棒が入らないようにすることまで、住む人をさまざまな脅威から守るための工夫が詰まっている。

しかし毎年夏から秋にかけて台風はやってくるし、長く生きていれば誰しも地震に遭遇するだろう。過去の大規模災害のことを考えれば、いくらガチガチに守りを固めても、人の想定など遥かに超えてくるのが自然の脅威というものだ。そしてどんなに高性能な家も、年月が経てば必ず古くなり劣化していってしまう。現にエアコンひとつ壊れたことで、自宅におけるQOLはだいぶ低下してしまった。

湿気におそわれながらこれを書いていて思うのは、どんなに素晴らしい家に住んでいようと、私たちはあくまでも自然の中に生かされているということだ。人間もまた自然界の生き物なのだから、自然に対抗するというよりも、うまく付き合っていけばいいと思う。このことを考えるとき、自然と共に生きるしかなかった時代の古民家には、ヒントとなるものが無数にある。


フミクラの家を決めるかどうかぐらいの昨年の冬に、古い建物を見学しに京都へ行った。形から入るタイプなので、まずは一番すごいやつを見ておこうと思ったのである。
いろいろと巡ったなかで、もちろん建物の中を見るのも楽しかったのだけれど、とくにいいなと思ったのが庭だった。今のところ一番好きな庭が、トップの写真に載せた建仁寺の「潮音庭」だ。

南北の建物と、それをつなぐ渡り廊下の四方から眺めることができる、落ち着いた中庭。写真は北側から撮ったがどの方向から見ても本当に美しい。海のような苔に、山のような幾つかの岩、奥行きをもたらす冬枯れの紅葉、どこをとっても風情がある。
こうした庭を維持するには膨大な手間がかかる。見に行ったときには、寺の外構部分のちょっとした植栽を5人がかりで手入れしていた。とてもフミクラの庭はこんな風にはできないけれど、日本庭園の独特の風情、そのエッセンスぐらいはなんと取り入れたいなと思う。

庭というのもまた人間にとっての、自然との折り合いをつけるための場所、自他のあわいをお互いに共有する場所ではないだろうか。
フミクラでもいずれは庭づくりを通して、いい感じの自然との付き合い方をもとめながら暮らしていきたい。


2024/07/01 新しいエアコン設置を待ちながら

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