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みちのひと

 ニガテなこと、スキなこと、そうでもないこと、とかくこの世は色々あるけれど見聞き知らないことのほうがそれはもう遥かに多いと気付いたとき私はなんというか知識というものに妙な希望を持てない体になった。とてもじゃないが手に余る。無限の情報の宇宙のなかで塵よりも小さな私たちが背くらべをしている様子は、「無知の知」とか「井の中の蛙大海を知らず」といった言葉が生まれてもなお変わらないようで、人類の進化とは一体なんなんだろうか、私は私で好きにしようとも思った。
 世事にまるで関心がないわけではないものの、ことさらに情報を得ようという気持ちも湧かないたちで、たまにニュースくらい知らなければ恥ずかしいと誰かに言われても正直うるさいだけだった。
 なるほど、世間はたとえば少年マンガだ。
 むやみに自信たっぷりこちらを見下し揶揄する敵役がやがて敗北する、という構図がひたすら続く。さて振り返ってみると序盤で早々にやられたあの敵たちは一体なぜあんな態度をとっていられたのかたいそう不思議だったから首を捻って捻って、はたと気付いた。おれのほうが背が高いんだぜみたいな、向上心の、ちょっと歪んだやつか。
 ポジティブさが歪むと他者を下げがちなる、我らかよわき人間よ。
 話を知識や情報のことに戻してみると、もつ人がもたない人よりも優位である気がしてしまうマジック。ないよりは、あるほうがいいじゃない? いや、それも「ある」を肯定的に捉えているだけではないかと、歪んだネガティブで抵抗を試みる。「ない」に価値はないのか。価値でなくてもいい、「ない」にあるものは何か。ややこしい問いである。
 私はまた飽きっぽくもあるから、別にないならないでいいんじゃないかと投げやりにもなる。あるとかないとかに意味を持たせようと頑張りすぎると、無限を彷徨うことになるのは前の段落でご覧の通り、むきになる必要も私にはないし。
 かつて私たちは何も知らずに生まれた、未知の人だった。知らなかったことを知るたび、世界にはまだ知らないことがあると知った。それなのに、知れば知るほど未知という宇宙を忘れていくようなのはどうしたことだろう。知を纏い、知を纏い、自分を囲んだ知で空が見えない。同じ地平に生きる人すら見えないでいる。
 我ら未知のなかにあり。
 我ら未知のなかにあり。
 まだたくさんのことを、私たちの誰も知らない。

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