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それ、迫害です。

ウィルスによる感染症の蔓延で世の中が結構混乱して、差別の問題が取り上げられるなかで思っていたことがある。

何かを理由に、誰かを攻撃して傷付けて、自分を満たすひとがいなくなることはあるんだろうか。というのも、明確な理由がない、いわゆる「いじめ」の心理が問題の根っこにある気がしているからだ。

差別する側が特別な論理で自分を正当化するように、そこには論理的に正当性を指摘できるだけの余地がある。という希望を見出せるのかもしれないけれど、いじめはどうなんだろうか。

また、なにがしかの理由によりかなり過酷に世間から総叩きにあう人もいて、さてでは正当な理由があればそういうことが許されるのか、となると差別を糾弾する声の正当性もときに怪しいのかもしれないという葛藤が生じる。価値観が枝分かれしすぎて、正当性に足元をすくわれる。

集団を意識すると、ひとりのときはたいしたことなかった感情が、なぜか攻撃的なものとして表れてしまうことがあるのが厄介の原因でもある気がする。

とりとめもないけれど、いじめは差別の、ある意味究極と思える。

それなのに「いじめ」という言葉の、妙におおらかな響きはなんとしたことか。いじめは、個に対する迫害だ。その迫害は、こんなにも日常的に行われ、差別の陰にすら隠れているのに。

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