明けない夜はない、と誰かがいった

一体誰がはじめて使ったのかは知らないけれど、なるほど、陽の光のイメージがキャッチーな言葉だから、ここのところの世界の有様のように続く苦境に立たされたときなど誰となく使いやすいようで、ちらほら目にする。

とはいえ当たり前の話、朝だって無闇に讃えられるいわれもないし、夜にだって夜であることで拒絶されるいわれはない。いまこの言葉を持ち出す人は、あくまで例えとして朝を希望と重ねているのは分かる。でもしかし考えてみて欲しいのだ。

夜が明けて朝が来て午後夕方と日が暮れれば、やがてまた夜が来る。でははたしてこの夜を、受け入れるべきものとして受け入れることに抵抗はないだろうか。喜びのときもあれば、悲しみのときもいずれ来るさ。裏を返せばそういう意味にもなりうるのに、耳障りのいいフレーズを都合のいい部分だけ切り取って見せてくるようで、悲しみを見ない振りをしているようで、そういうとき私の居心地はすこぶる悪い。

ではわざわざ悲しみもいずれ来るよと喜び勇んで唱えていればいいじゃないか、といわれたらそれは違う。そういう真実もあるかもしれないけれど、悲しみを歓迎したいわけじゃない。苦しいことなんて、ないに越したことはないと私は思う。

もし同じように思うなら、考えてみてもいいんじゃないだろうか。

少し距離を置いて、考えてみてもいいのではないだろうか。

たとえば、思考力を奪うような笑顔で近付いてくる使い勝手のいいこの言葉を、私が嫌うように。

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