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推理する国語(中編)

 国語の勉強はあらゆる推理能力を高めるものだ。で、その推理というのは日々の生活でもしている簡単なことが根本だ。というのが前回の話。

 国語の勉強は日常やっていることと、そんなに変わらないということ。

 そういった日常の経験則からでも、論理的思考からのものでもいいのだけど、これを蓄えていくと「(推)察する力」を身につけることにもなる。すなわち、思いやりの心に通づることとなる。

女の子が、泣いている。

 という場面に出くわしたとき、を前回も引き合いに出した。「泣いている」→「悲しい」と考えるのが正解とは限らないわけだけれど、その可能性が頭をよぎったかどうか。それが肝心なところである。

 思いやりの発露は、推察する力にある。 

 「悲しいのかもしれない」とすら推理できなければ、彼女を助けようという行動を起こすこともない。

 推理するための素材は自分の経験と心情だけに依るのではなく、むしろその外にこそ多くがある。だから、わたしたちは学校の国語で教材にふれてたびたび訓練を行う。ひとの意図を察することができるように、あるいは、わたしの意図を察してもらえるようになるために。

 事象と事象をつなげて「かもしれない」を察する国語力は、人と人とをつなげる、きっとやさしい力になるのである。


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