『バケモノの子』評:ミラーリングによって築かれる関係から、育児参加の再考
前節にて、私は『おおかみこどもの雨と雪』における母子のディスコミュニケーション、『花』の欠点を論った。
『バケモノの子』は実に対照的な作品であり、『おおかみこどもの雨と雪』補足として、ここに『バケモノの子』評論を書き連ねたい(母親に対して父親という短絡思考ではなく、『花』の足りなかった部分を描いた結果あのような作品になった……私はそんな印象を抱いた)。
なお、『養老孟司の〈逆さメガネ〉』の第5章、「変わる自分、変わらない自分――心と身体の関係」はそのまま符合することが多い。引用すると限がないため、是非一読を勧める。図書館で楓がカフカの全集を手に取っていた理由も分かると思う(勿論、丸々全部読んで欲しい一冊。非常に読みやすい本です)。
●模倣関係から、繰り返して表現される鏡像的関係
作中、九太は母の言葉――なりきる。なったつもりで――を思い出し、熊徹の模倣を試みる。小説では冒頭、多々良、百秋坊が『我々があいつになりきって、あいつの主観において語る』と言って語り出すので、模倣学習が強調される。
『師の模倣』については手本としている映画があるらしいし、よく言及されることなので、その詳しい解説はそちらに譲り、私は鏡像的関係について言及しようと思う。
『バケモノの子』には二項対立より同類項、似たもの同士が強調され、(精神的)鏡像関係、鏡のモチーフが多く現れる。
渋谷と渋天街、熊徹と猪王山、師と弟子/熊徹と九太、『白鯨』(楓の解説:自信を映す鏡)、9年前の蓮が渋谷に放って置き去りにした呪いの『山彦』、九太と一郎彦、地下鉄車両の窓ガラスに映る自分に自問自答(小説にて強調)、一郎彦と楓「誰だってみんな等しく闇を持ってる。蓮くんだって抱えてる。私だって!」……、再び九太と一郎彦『俺たちはバケモノじゃない。あの美しいバケモノにはなれない』と述懐し、赤い紐のバトンを手渡す。
細田監督はミラーニューロンを意識しているのではないかと思う。模倣の先は共感……、そして自省「鑑みる」だ。
●双方向的師弟関係:「鑑みる」から、君子は豹変す
弟子の九太の模倣はそのまま鏡となり、師に己を鑑みさせる。
熊徹は攻め一辺倒であった自分の弱点を教えられて、猪王山が驚くほど変わる。その二人の関係は、宗師に「どちらが師匠かわからぬの」と笑われるほどだが、実際、新しい宗師を決める試合では、セコンドの九太が師匠のように振舞う。そう、熊徹は「違う自分」に生まれ変わっているのだ。
勉強の師、楓もまた豹変する場面が現れる。芯の強い子のようだが、親にはっきりものが言えない臆病な子だ。その子が鯨となった一郎彦へ己の意思をぶつける……、もともとの強さの露見ではなく、蓮を知って生まれた「違う自分」の現れではないか。
最後にもう一人加えたいが、それは物語の余韻に止めよう。
親(師)によって子(弟子)の人格が作られ、子によって親は己の人格の変化を余儀なくされる。……これは簡単にできることではない。
一方『おおかみこどもの雨と雪』において、君子豹変はない。教育者は変わらない。師弟関係は終始一方通行のままだ。
韮崎老人が『花』によって変わらないように、母に変わった『花』の在り方は、『雪』によって変わらず、また『雨』によって変わらない。私は、おおかみになろうとしている『雨』を前に、変われない『花』を間違っているとは言わないが、はっきり言って力不足だと思う。
変わらない(変え難い)教育者の在り方は、少し掛け違うと悪平等、規格外の者を切り捨てへ繋がることがある。
●バケモノと人間:バケモノの意味すること
細田監督が『バケモノの子』の参考文献に挙げた中島敦の『悟浄出世』にも目を通してみた。
非常に含蓄に富んだ作品である。ただ、これに言及してしまうとつまらないし、また限がないので1点だけ、バケモノの意味について触れたい。これが曖昧だと『バケモノの子』の真意もまた曖昧のままだ。
私は『醜い乞食の子輿』こそ、細田監督の設定したバケモノの根幹であると思う。
身体にいくつもの奇形を抱えながら造物主を怨まず「どんなおもしろい恰好になるやら、思えば楽しみのようでもある」と嘯く、彼を多様性の象徴と見るのが正解だと思う。
渋天街において、人と違うこと、身体的差異は問題となっていない。というのも親子こそあるが、そこにホモソーシャルな『群れ』は見られず、『同じバケモノ』という連帯は希薄である。
次郎丸が九太に手を出すのは「弱いやつを見るとむかっ腹が立つ」から(人間への差別感情は全体的に希薄)、その言葉に偽りなく、成長した九太に負けると、屈託なく「おいら、強い奴が好きなんだ」と豹変する。
対照的に、同じでないことを気にする、同じでないものを憎むのは一郎彦だけだ。彼はバケモノにとって異質であるため、九太を「ニンゲンノクセニ」と憎悪する……、それは自分が猪王山と同じバケモノでないことへの絶望にも見える。
また、賢者を訪ねて諸国を巡る旅、九太の一行が求めるのは『強さ』だが、『悟浄出世』の悟浄が求めるのは[自己、および世界の究極の意味についてである]という。
マントヒヒの賢者以外、答えは「すなわち……」で終わってしまい、最後まで聞けない。恐らく、「これが私の道だ(お前の尋ねる、他者の目を変える強さなどに関心はない)」ということではないだろうか?
言わば、「あなたは何故自分を知ろうとしないのか?」という問い返しが返ってきたのだろう。すでに『私の道=胸ん中の剣』がある熊徹は最初から無関心だ。
人間と違い、バケモノは他者の評価に拘りが無い、道を迷うことが無い。そして己の形に拘りが無いから、変わることへの抵抗がない。その究極の形が転生なのだろう。
だから人間の蓮はバケモノを美しく思い、九太はバケモノの子であることを誇りに思うのだろう。
一方『おおかみこどもの雨と雪』において、『花』は小学校へ通う『雪』に条件を出す。
〝なにがあっても、おおかみにならないこと〟
それは『同じでないことを気にする』人間的拘りだ。それは他者と異なる自己の発見には抑圧的に働く。
人間的な母なのに、それに無自覚な『花』は返って始末が悪い。
●カメラ越しの現代的親子関係:しかし、鯨はカメラに映らない
映画序盤の渋谷、警察官に追われる蓮が防犯カメラ越しに映る……、これもまた文字と同じ死物ではないか。そして終盤、一郎彦が防犯カメラ越しに映る。これには思わず唸った。
その後、映画はラストでアナウンサーのセリフ「防犯カメラの映像には何も映っていない」(云々、途中で場面が切り替わる)が差しはさまれる。
念を押して言うが、
1,鯨はカメラに映らなかった。
2,以前の場面でカメラは蓮・一郎彦の姿をちゃんと映していた。
それだけを見ていたなら不思議に感じなかったと思う。小説では多々良のセリフがあったので、それが気にかかった。
その構図に思い至ったとき、思い出した話がある。
室内犬を飼い始めた人の話だ。犬の習性をよく知らず、しかし積極的に調べようともしなかった人の話である。
その人はトイレを早く覚えて欲しくて、子犬が粗相をする度に厳しく叱りつけたという。するとその子犬は叱られることを恐れて、飼い主の目の届かないソファの陰などで排泄するようになってしまったという。
九太と熊徹との関係、身体模倣を介した動物的、原始的な教育……、それと対照をなす現代の親子関係、身体のなくなった親子関係のメタファーに見える。
防犯カメラは現代の親、都市的な親の視点の象徴だろう(「ふたりとも、私の気持ちなんて知らない。気付いてすらいない」と断言される楓の両親のような)。自分が何者かわからず苦しむ一郎彦から生まれた鯨、子供の心の化身はそのレンズに映らない……
子供の心(鯨)は正解の分からないことで不安を抱き、その冷たいカメラから身を隠くそうとする(一瞬クローズアップされる図鑑の鯨、そこに記されたスパイホップという言葉はパワーワードだ。親の顔色を窺う子供の態度を象徴するようだ)。
親もまた正解の分からないことで不安から、子供に見られることへの恐れから姿を隠し、客観的で正しいと通知表などの報告書、防犯カメラ=死物を盲目的に信じてしまうのだ。
要するに、「死物から一旦離れて、生身で子供と向き合うことを鑑みてみませんか?」という話ではないかと思う。
前述の犬の飼い主も、『叱られた犬の姿』から=『叱咤しかしてない自分』を鑑みることができていたなら(勿論、それは不快なことだ)、結果は違っていたかもしれない。
君子豹変は楽では無いですが、子供=己と向き合いませんか?
ミラーリングについての参考文献
『まねが育むヒトの心』 明和政子
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