『ここにいる』と言えない者たち

「そなた、邪悪な年老いた魔法使いよ、そなたは何たることをしたのだ!そなたがこういう馬鹿げたロバ祭りなんかを信ずるのであれば、この自由な時代に誰が今後そなたを信用するはずがあろうか?
 そなたのしたことは、一個の愚行であった。そなた、賢いものよ、どうしてそなたがこういう愚行をなしえたのか!」
 『ツァラストゥラ』第四部18節、ロバの祭りより

●父親のルネサンス[Renaissance]
 次郎物語第三部、序盤こそ何だかスピリチュアルだと思ったが、第三部・第四部のテーマは父親、影の主人公は俊亮ではないか。
 改めて、日本の「父道」に邁進していた父親が明治以降にどこへ行ってしまったのか考えてみる。

 香山リカ先生は『明治中期に子どもに家庭教育を授け、育児日記をつけることのできる母親は、実際にはごくわずかであった。当時、理想とされたような「賢母」たちが実際に大量に登場するのは、大正時代、第一次世界大戦前後になってからのことと考えられている』という。
 案外、「大事な『いえ』の跡継ぎの教育を女なんぞに任せられるか!」と言って憚らない頑固親父、保守的父親は市井に溢れていたのではないだろうか?彼らは一体どこに消えた?

 ……戦地ではないだろうか。
 以前から違和感を抱いていたことだが、昨今のSNSの風潮を目にしてそれは一層強くなった。
 盆の時期、戦没者へ哀悼の意を奉じることには何の抵抗もない。ただ、どうして英霊ばかり、死者ばかりを称えるのだろうか?どうして生き証人、生きて帰ってきた人の話に耳を傾けようとしないのだろうか?
 ロバート・キャンベル教授の2018年8月12日のブログを読んで、一つの答えに考えが至った。
 敗戦後の日本は、戦地から生きて帰った人が『「ここにいるよ」と言えない社会』だったのではないか。横井庄一元軍曹の言葉、「恥ずかしながら生きながらえておりましたけど」は敗戦を迎えた日本人の心情の衒い無き代弁ではなかったか。

 次郎の父俊亮は、先祖伝来の家屋敷を手放し、せっかくはじめた酒屋も番頭に食われてしまう。ここまでは湖人先生の自伝に相違ない。
 しかし第四部にて、養鶏業では後妻のお芳の方が手際良く、朝倉先生には「元来商売のおじょうずなほうでもなさそう」と言われ、次郎も「商売はへたです」と返すあたり、余計なくらい貶めているのではないかと思ったが、その甲斐性を敗戦当時の父親の心中の暗喩と見たとき、些かも潤色されているとは思えない。

 よく戦争を引き合いに男の生得的暴力の必然を語る人はいる。
 なるほど、戦争は『男らしさが生きる地』かもしれない。しかし、ETV特集「隠されたトラウマ~精神障害兵士8000人の記録~」を見て思う。例え死を免れたにせよ、戦争は『父親の死ぬ地』である、と。


 まあ、ここまでの事は私の妄想半分であり、受け流してくれてかまわない。
 真に提示したいのは、湖人先生が次郎物語第四部に込めた思い、それは戦敗国日本に取り戻して欲しい父親だ。
 それは決して理想像イマジナリーファーザーでは無い、公徳を実践できる身体を持った父親である。
 第四部にて、五・一五事件へ所信を述べたことから軍人に目を付けられ、とうとう辞職せざるを得なくなった朝倉先生は、俊亮に自身の主催する生徒の集まり「白鳥会」を引き継いでもらえないか頼む。俊亮は「先生ではなく、小父さんと呼んでもらえるなら」と言って引き受ける。
 戦争孤児が溢れた戦後日本、『駅の子』は記憶に新しいと思う。それを目に、心を痛めたからこそ、湖人先生は『地域の父親』という考えを広げようとしたのではないだろうか?(皆自分事で手一杯で、広がってないが)

 以下、少々長いが俊亮小父さんの挨拶の一部を載せる。

「私の商売は養鶏です。これからは君らの小父さんにもなるわけだが、それは私の商売ではない。だから、君らのお世話をやくよりか、自然鶏の世話をやくほうが多かろうと思う。むろん、朝倉先生のように朝から晩まで君らのことばかり考えているというわけにはいかない。かりに考えても、ろくなことは考えないだろうと思う。だから考えないことにする。鶏のことは一生懸命に考えるが、君らのことはあまり考えないことにする。
 こう言うと、人間より鶏を大事にするようだが、そうではない。
 自分の商売でもないことを、あまり立ち入って考えたら、かえって君らの人間をだめにするだろうと思うから、考えないつもりである。つまり、君らの人間を大事に思うから考えない。そう思っていただきたい。もっとも、君らのほうから何か相談ごとがあったら、それは君らの小父さんとしていくらでも相談にのる。鶏のことはほっておいても相談にのるつもりである。
 相談にのるというのは、むろん教えることではない。相談はあくまで相談だ。第一、私は先生ではないから教えることはできん。しかし、みんなといっしょになって話しあうことならできる。だから、いつでもひっぱり出してもらいたい」

 さらにもう一歩踏み込んで考えたい。それは第三次世界大戦を憂いている湖人先生の思想的立脚点だ。
 第二部にて、病的伝統を笠に着た上級生を前に小刀を握りしめて立ち向かおうとした次郎へ、山岡鉄舟の活人剣を説いた朝倉先生。
 第四部にて、次郎の血判状を見て「生臭いね。」と言う父俊亮。
 そして第五部、二・二六事件と友愛塾……、破壊的革命(純粋な若者ほど熱狂に浮かされる。次郎も度々そちらへ傾く)に疑義を投げかけ、辛抱強く考えることを説く湖人先生は、強いて言うとバーク保守思想に近いのではないだろうか?

 そこで問題となるのは「プレスクリプション」を導くための妥当な前提である。再び第五部の付記を引用する。

 この記録は、見ようでは、かれの生活記録と言うよりは、むしろ、満州事変後急速に高まりつつあったファッシズムの風潮に対する、一小私塾のささやかな教育的抵抗の記録であり、その精神の解明である、と言ったほうが適当であるのかもしれない。

 湖人先生は満州事変後を悔い、事変以前の日本社会に遡及する保守の教育者として、戦争に向かう日本(戦後日本の統治)に杞憂を抱いているのではないか。
 その後、西部先生の『教育―不可能なれども』を読んでその考えは強くなった。日本では保守思想こそが父親の役割を重視(権利、権威ではない、義務の自覚と責務の遂行である。西部先生は『男性の女性化という戦後の風潮は家庭の修身教育を崩壊させるのに貢献した』と問題視する)、その喪失に危機感を抱き、再発見を社会に求めるのも当然の帰結ではないか。


 最後に次郎の歌を以ってこの『親の礼』論議を閉じようと思う。

「われをわが 忘るる間なし道行けば 硝子戸ごとにわが姿見ゆ」

 『一時も自分を忘れることができないのは恥ずかしい』と、次郎が「白鳥入芦花はくちょう、ろかにはいる」と対称的で卑小な自分の心をうたって作った歌。対し、朝倉夫人は「自分を忘れることのできない自分の醜さに悩みを感じないのでは「白鳥入芦花」の精神も何もあったものではない」、この歌はそれを気付かせてくれたという。
 身体を失った者達へ、先ず鏡を見よ。ロバの祭りが如き家父長制を広めたところで、ルネサンスは成らない。


【後書き】
 私がこのようなものを書こうと思い至ったのは、(暇つぶしというとあれですが)下村湖人先生の年譜を眺めていた時でした。
 今まで深く考えてこなかった次郎物語の出版年、第三部が太平洋戦争の敗戦の1年前、昭和19年11月に出版された事と、第四部が太平洋戦争の敗戦から3年、昭和23年に連載され、翌年4月出版された事が妙に気に掛かってきたのです。
 そして、以前引用した次郎物語第四部付記、

 出来うれば、敗戦後の日本の運命と次郎の運命とがどう結びつくかを書き終えるまでは、この物語に別れを告げたくない(中略)私は急がなければならないという気がしてならない。まして、第三次世界大戦の危機がわれわれの頭上をおびやかしていることを思うと、一切をなげうって、この仕事に没頭すべきではないか、とさえ思うのである。これは誇張でもなんでもない。第四部を書き終えた時の私の実感なのである。

 解説をされた古谷綱武さんの指摘『私の判断によれば、ことに第三部以後は、かならずしも、次郎を主人公にした作者の自伝的作品とは思えない』は正に的を射ていると思います。私はそのメッセージの意図することに改めて思いを馳せました。
 ついては『私の青空』で八名信夫さん演じる田中伝吉が『パパ・ヘミングウェイはこう言ってた』と言っていたのを真似て、私は『湖人の親父はこう言ってた』と言い、世に伝えたいと思った次第です。

 これで【賢母を勧めない】は終わりです。御読了有難うございました。

参考文献
『養老孟司の〈逆さメガネ〉』 養老孟司
『次郎物語』 下村湖人
『母親はなぜ生きづらいか』『親子という病』 香山リカ
『鬱の力』 五木寛之 香山リカ
『列女伝』 劉向 訳注・中島みどり 
『孟子』 訳注・小林勝人 
『おおかみこどもの雨と雪』 細田守
『バケモノの子』 細田守
『まねが育むヒトの心』 明和政子
『〈対話〉のない社会』 中島義道
『アスペルガー症候群』 岡田尊司
『自分だけの部屋』 ヴァージニア・ウルフ 訳・川本静子
『教育―不可能なれども』 西部邁
『ツァラストゥラ』 フリードリッヒ・ニーチェ 訳・吉沢伝三郎
等々。

参考
・Eテレ、ETV特集「隠されたトラウマ~精神障害兵士8000人の記録~」


・ロバート・キャンベル教授ブログ『つぶて文字』、
September 25, 2018 [「ここにいる」を言う意味]、


August 12, 2018 [「ここにいるよ」と言えない社会]


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