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「やらなくてもいいこと」こそが、おもしろい。

明後日の土曜、またみんなで集まる。

今年1月末に終了したはずの「バトンズの学校」で、補講を開催することになったのだ。もちろん当初は、そんな予定などなかった。けれども1月末に予定していた懇親会が、コロナ禍により延期となったままだった。それで、もうそろそろ集まっても大丈夫だろうということで集まることにしたのだけれども、せっかくだったら懇親会の前に「補講」をやってしまおう、という判断によって現在、その準備を進めている。やらなくてもいいことかもしれないし、当然ながら別料金をいただくようなこともしない。やるのだったらおもしろく。やるのだったら意義あるものに。それがぼくの基本的スタンスなのである。なにごとも中途半端では、自分がおもしろくないのだ。

そんなわけで昨夜。補講で話す内容を考えながら、全8回の課題ごとに戻していった膨大な量のフィードバックを読み返していた。数か月ぶりに、モノによっては半年以上ぶりに読むフィードバックである。



(さあ、ここから笑われるかもしれないことを言いますよ)



こりゃすげえなぁ、と思った。ここにはもはや愛しかないよ、と思った。ひとつひとつのフィードバックからあふれ出てくる自分の愛情に、むせ返りそうにさえ、なってしまった。

愛情なんてものはそもそも、目に見えるものではない。愛情を測るモノサシだって、人それぞれだ。冷たそうに見えてやさしい人は多いものだし、その逆をいく人もまた多い。そういうなかで、もっともわかりやすく他者からの愛情を実感できるモノサシとして挙げられるのが、「労力」だ。

この人は自分に、これだけの労力を注いでくれた。この人は自分に、これだけの時間を割いてくれた。この人は自分に、こんなにたくさんの真剣を注いでくれた。もしもそう実感することができたなら、それはおおきく「愛」と呼ぶべきなにかではないかと思うのだ。

逆にいうと、他者からぞんざいに扱われたとき、いかにも面倒くさげにあしらわれたとき、片手間の作業として片づけられたとき、そこに愛を実感することはむずかしくなるし、こころをザクザク傷つけられる。

なんだか自分の書いた膨大な量のフィードバックを読んで、「これはとんでもねぇ愛情だよなあ。すげえヤツだなぁ」と、なかば他人ごとのようにあきれかえってしまったのである。



と、そんな「バトンズの学校」卒業生である栗田真希さんが同期の4人に声をかけ、 note マガジンをはじめたのだそうだ。

そうだよねー。場は自分で耕さないといけないんだよねー。そして「たのしい」は与えてもらうものではなく、自分でつくるものなんだよねー。なんてことを思いながら、第一弾の記事を読んだ。

プレッシャーをかけることはしたくないけれど、長くたのしく続いていけばいいな、と思っている。