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焼肉帰りのコンビニのように。

アパレルショップからのダイレクトメールが届く。

秋冬のコレクションが揃いました、的なことが書いてある。実際に新作コートやジャケットなどの写真が添えられている。しかしながらさすがに、この暑さのなか購買意欲は湧かない。クリックする気にも、なかなかなれない。見ているだけで暑いというか、それを着る自分がまるで想像できない。到着した商品を試着することさえ、想像できない。以前にも書いた、遠くのものを近くに引き寄せて考える力、すなわち想像力が及ばないのである。

似たところでいうと、満腹時のコンビニがある。焼肉なら焼肉を、たらふく食べた帰りのコンビニエンスストア。明日の朝食を買っておこう、お菓子の補充をしておこう、なんて感じで棚を物色するも、なにひとつとしておいしそうには感じない。むしろ見ているだけで吐き気をもよおすことさえしばしばで、けっきょくコーヒーを買う程度で店を出てしまう。そして翌朝、サンドイッチのひとつくらい買っておけばよかったと後悔する。

おそらくこれは、どんな商品にも言える話だろう。

たとえば本にしたって「いまじゃない」はある。「その系統の本はお腹いっぱいだな」とか、「しばらく食べたくないな」となることは、本そのもののおもしろさと関係なくある。空腹は最高の調味料と言われるように、「おいしさ」や「おもしろさ」はそれを食べる側の体調やタイミングにおおきく左右されるものなのだ。

じゃあ、とぼくは考える。

なぜ週刊少年ジャンプは「お腹いっぱい」にならないのだろうか。いや、別にジャンプにかぎらず、スピリッツでもモーニングでもいい。かつてぼくが夢中になって読んでいた週刊漫画誌は、どうして「また今週もこれかー」にならないのか。

ひとつには、それが雑誌であるからだろう。つまり、たくさんの作品が掲載されており、ぼくの世代で言えば『こち亀』に食傷気味でも『北斗の拳』はおもしろかったり、『北斗の拳』に食傷気味でも『ドラゴンボール』がおもしろかったり、『ドラゴンボール』の展開に飽きていても『ハイスクール奇面組』がおもしろかったり、いろいろと継続して読む理由があったからだろう。

さらにいうと、すぐれた週刊誌には「週刊誌の時間」が流れていたのだと思う。一週間以上待たされると、内容を忘れてしまう。一週間よりも早く届くと、飽きがきてしまう。長くもなく、短くもない、「これでしかありえない時間」が、週刊漫画誌には流れていたのだ。一話17〜21ページというページ数も、週刊で回せるギリギリのページ数というだけでなく、「これでしかありえない」週刊誌の時間をつくるものとして、試行錯誤のなかで定まっていったのではないかと想像する。

漫画少年でありテレビっ子だった小中学生のぼくは、完全に「週刊」の時間に生きていた。漫画雑誌から離れ、テレビ番組からも離れつつある最近は、はっきりとした時間軸を持たず、なんだかふわふわしている。


えーと、なんだか話がずれちゃったけど、当初書こうとしたのは「本って、読むべきタイミングがあるよね」という話と、「だからむかしおもしろいと思えなかった本も、読み返すといいことあるよね」という話なのでした。

機嫌や体調、人生経験に左右されがちな感想を、生涯不変のものとして確定させるのはもったいないよなあ、と思うんです。