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2019年1月の記事一覧
なぜだかいつも酸素のうすい場所へぼくは。
きのうはオフィスに泊まっていた。
朝の6時前くらいまで原稿を書き続け、力尽きてソファに移動した。こういうこともあろうかと、オフィスの引越にあわせてぼくはフランスベッド製のソファベッドを購入しているのだ。取り外した背もたれがそのまま枕になるというおどろきの構造をもったそのソファベッドは、家にも1台ほしいくらいに寝心地がいい。
しかし、3時間としないうちに目が覚めてしまった。
編集者さんからの、
ぼくが読みたい文章。
沼、という表現があるのを知ったのは、一昨年のことだった。
広辞苑が「湖の小さくて浅いもの。ふつう、水深5メートル以下で、泥土が多く、フサモ・クロモなどの沈水植物が繁茂する」と解説するところの沼については、もちろん知っていた。そうではなく、趣味や芸事の深みにはまり込んでいくさまを「沼」と呼ぶのだと、ぼくは一昨年に知った。たしか、伝聞のことばとして聞いた「海外ドラマは沼」なる台詞が、その最初だった。
自分へのご褒美は遠い場所に。
ああ、それほどにも忙しくなったんだなあ、と感慨深く思う。
おととい、3泊4日の日程でホテルを予約した。こう書くと「ついにホテルで缶詰か!」と笑う人も多いだろうけど、犬がやってきてからのぼくは、たぶん一度もホテル缶詰をしていない。なにも仕事をせず、犬とあそぶばかりの旅行として、ホテルを予約したのだ。ちなみにホテルや旅館に泊まり込んで執筆する作業、「旅館に詰める」の略語として「館詰」が本来の表記だと
なにも考えず、箇条書きの続きで。
頭を働かせる余裕がなく、箇条書きのメモからいくつか書く。
ドライマンゴーにはまっている。ある方から旅行のお土産でいただいたセブ島産のドライマンゴーがあまりにおいしく、以来それをネット通販で購入するなどして仕事中もずっと食べている。こうやって過剰に食べ続けた結果、いつしか見るだけでげんなりするほど飽ききってしまう自分の阿呆さ加減をよくよく承知していながら、やめられずに食べている。
もしかしたらお
企画書のタイトル案。
ある段階までの企画書とはたいてい、そういうものだろう。
あたらしい本をつくろうとするとき、編集者はまず企画書を書く。まだ具体的なことはなんにもわからない状態で、企画書を書く。そこには大抵、タイトル案も付記される。まあ、よくわからないけど、平成のサブカルチャーを振り返る、みたいな企画だったら『決定版・平成サブカル30年史(仮)』みたいな文言が、ドーンと入る。正式なタイトルが決まるまで、著者も編集者
記憶のなかの、あのひと。
記憶絵、というあそびがある。
たしかナンシー関さんが提唱(というか連載)したのがはじまりだと思うけれど、著名人、マンガの登場人物、動物、昆虫、あるいはその他もろもろのキャラクターを、なにも見ずに記憶だけを頼りに描いていく、というあそびだ。最近ではそこに「絵心のない人」を組み合わせて、おもしろの確度を高めたエンターテインメントとして定着している。
子どものころから絵を描くのが好きで、自作のマンガ
どうしても消したかった「おれ」。
ライターになってからの数年間、「おれ」が邪魔だった。
なにを書いても原稿から「おれ」の匂いがする。どうにも田舎っぽい、いかにも手づくり感の漂う、つまりは素人くささの抜けない、洗練とはほど遠い原稿ばかりを書いていた。署名記事でもなく、「おれ」を読みたがっている読者など皆無であるゆえ、「おれ」の匂いがただただ邪魔だった。まわりの人がどんなに褒めてくれても、自分にはわかる「おれ」の匂いだ。
経験を重
雑誌とウェブとタイムライン。
むかしはこんなこと、思ったこともなかったぞ。
たとえばきょう、これからぼくが書く note はたぶん、5分とかからず読める文量だと思う。流し読みをすれば1分で終わるだろうし、内容もそれほど難解ではないというか、かるい話を書く。時間をとらせることも、ことさらあたまを使わせることもない。誰かの気分を害するような話も、書かない。
しかしながらおそらく、なにかの拍子でこれを読み、「けっ!」とブラウザや
来月までのスケジュール。
月末が締切の、おおきな原稿を抱えている。
あと2週間。間に合うのか間に合わないのか、薄氷を踏んでいる足裏が緊張で熱を帯び、もうそれだけで厚氷が溶けてしまいそうな緊迫感である。しかし、締切の遵守がマストなのは来月のあたまからこれまた薄氷スケジュールで原稿がひとつ待っているからで、なおかついずれの原稿もいっさいの手抜きが許されないというか、無意識下の手抜きでさえしたくない、大事な原稿なのである。
継続するのに必要なもの。
排骨担々麺、という食べものがある。
豚のバラ肉に小麦粉をまぶし、また多くの場合にはカレー粉などの香辛料もまぶし、油でからりと揚げた豚バラ肉の唐揚げを載せた担々麺である。溜池山王駅近くの赤坂店が有名な「はしご」、再開発のため残念ながら閉店してしまった渋谷の「亜寿加」、あるいは赤坂にある「希須林」のラーメン屋。いずれの店で食べてもおいしく、もしかしたらおれはあらゆるラーメンのなかで排骨担々麺がいちば
千里の道も一歩から。そのまた先も一歩から。
アスリートの競技者人生は、短い。
20歳前後でプロとしてデビューし、いかにも若々しく初々しい活躍を見せたあと、10年もすれば大ベテラン。引退の足音がひたひたと忍び寄り、20年も現役を続けられれば立派な「鉄人」だ。
もう流行らないことばになったけれど、これは少し「ドッグイヤー」と似ている。アスリートにとっての1年は、一般人にとっての7年。まあ、さすがにそれは大袈裟だとしても、たとえば5年。そう考
年末年始を思い出して。
あれは年末だったか、年始だったのか。
Amazon プライムビデオで、オアシスの記録映画『スーパーソニック』を観た。公開当時「オアシスみたいなバンドに、観るべき『ストーリー』なんてあるわけないじゃん!」と敬遠していたドキュメンタリーだ。
楽曲もいい、発言も最高におもしろい、兄弟のキャラクターなんてまるでマンガだ。でもよくもわるくも「それだけ」でしかありえないのがこのバンドで、いっさいの深読みを
わたしの本性がばれるとき。
その人の本性がばれる、とされるシチュエーションがある。
たとえば、大酒を飲んだとき。普段はおとなしくて礼儀正しい人が、大酒を食らった途端に猛虎襲来。おおきな声で騒ぎだし、きたないことばで悪態をつき、はてには脱いだり吐いたり潰れたりの大騒動を巻き起こした挙げ句、「あいつ、ほんとはこういう人間だったのか」と周囲からの信頼を一夜にして失う、若き日のぼくのようなパターンだ。
あるいはハンドルを握った途
わたしの国立競技場。
さきほど、長い長い原稿をひとつ、書き終えた。
重厚ではないものの、長大であることには疑念をはさむ余地のない原稿だ。こういう長さの原稿を書くとき、とくにその序盤あたりを書いているとき、ぼくは毎回戦慄する。
「これ、ほんとうに終わるのだろうか」
こんな調子で書いていたら、いつまでたっても終わらないんじゃないか。この段階でこれだけ疲れ果てているのに、その5倍や6倍の原稿を書き上げるなんて、どう考え