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好きな笑いと知らない笑い

「お笑いを見るの、ちょっと疲れたな…」
年末に思ってしまった。お笑いファン(と呼べるレベルに達しているのかは置いといて)になってから一年と少し。
大きな賞レースもあった、初めてちゃんと見る決勝だった。いつもと違う劇場に行って、知らない芸人さんをたくさん見る機会もあった。いつも行っている劇場でも、好きな芸人さん以外のネタは初めて見るものが多い。

情報過多。たぶん。

それでもお笑いを好きになりたての頃は、同じ状況でもすべてが新鮮で楽しかった。内輪ネタで笑っているお客さんを見て羨ましかったし、わからなくても皆笑ってるのが楽しくて笑ってた。今と何が違うんだろうと考えてみたら、「知っている笑い」が増えた分、「知らない笑い」に対して身構えてしまうというか、知識を動員して面白さを捉えなければと焦ってしまっていることに気が付いた。

もちろんそんなこと、する必要がない。「面白い」を見に行っているのであって、面白さをわかっていることを誇りに行っている訳ではないんだから。
先日、ある友人に劇場通いのことを話したら興味を持ってくれて、「行ってみたい。面白くなかったら笑わないけど良いんだよね?」と言われた。その時の私には衝撃だった。いつの間にか、「笑えない」時がある自分に劣等感を持ってしまっていることに気付かされた。お笑いって全部面白くて、それをわかるかわからないかだと、わかる方の人間になりたいと、いつの間にか思っていたけど、私には面白いと思えない、わからない笑いがあっても良いんだと改めて思えた。

その逆もある。お客さんが「重い」という表現、たまに感じる、客席の空気の重さ。ネタや、舞台上で起きていることは面白いのになあと思うとき、私にはそれが同調圧力なのか、私だけが面白いと感じているのか、わからなくて怖い。面白かったら気にせず笑えばいいだけなのに、周りがどう感じて笑わない選択をしているのかを気にしてしまう。だからそんな中で大声で笑っているお客さんに憧れる。これに関してはいまだにどうすれば良いかわからなくて、気まずい思いをすることが多い。気にせず笑える日もあるんだけど、明らかにお客さんが少なくて空気も重い日とかね…「何言っても笑う客」みたいなことを思われてないか気になってしまう。

お笑いを知っていくうちに、知識や経験が増えるとともに笑えることが増えていくという楽しさもある。だけどその分、知っていくと笑えなくなっていくことも増えていく。私にはまったく関係ないはずの関係性とか考えてモヤモヤしてしまうこともある。正直、あんなに面白いと思っていたものが、そんなに面白いと思えなくなる日も来たりする。

以前「推しは推せる時に推せ」について書いたけど、「面白いと思えるものは面白いと思えるうちに推せ」でもあると思う。「皆面白いと思ってるのか」「果たしてこれは本当に『面白い』のか」とか、疑問を持つ前にとにかく自分の思う「面白い」を信じて推すのが楽しいと思います。当然か。

みたいなことをつらつらと書いていたら、以前の記事で「未だにこれは分からんなぁというものもありますが、追い追い面白さが分かってもいいし、一生分からなくても別にいいんだなと思います。」なんて書いてて、実は今「一歩進んで二歩下がる」状態にいることが分かりました。まあこれも歴史ですよね。一貫してなくてもいいや。でも3か月前の方が安定してたな私。

久しぶりにnote書きました!文章が下手になってる!たまに書くようにしたいです、お笑い以外のこともね。

Twitter ふみた@AiwoshiruG

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