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今年の志望理由書指導

今年度も志望理由書指導が始まりまして、昨年度の方法とだいぶ変えています。

今年度は、初回に志望理由のストーリーや邪悪な問題の生態系の話をしつつ、大学の存在意義を語るところから始めました。
そして、その直後、15分の個人面談や、少人数であれば各々の志望理由をもとに対話する会を行なっています。
ポイントは個別面談を初期段階で入れたということです。

クラスの人数が多ければzoomをつかって個人面談にしてしまいます。40人くらいまでならいける感じがします。
対面にすると時間がどうしても押してしまうので、時間のコントロールをするならオンラインがよいと感じています。

10人未満なら対話の会がよさそう。
他の生徒のやりとりを見ながら学んだりできるし、ロイロノートあたりを使って因果ループ図を書いてもらうと、私が提出物に書き込む様子も全体に共有できるので、いい感じで授業できます。

この面談&対話のゴールは「次回の講義は研究計画の立て方の話だから、その活動に向けて前進できるようにすること」。

個人面談にするさい、自由連想で始めます。
「好きなことを話していいよ。これをやりたいとか、こういうところが悩みどころだ、とか、なんでもかまわないよ」と。

色々と試行錯誤して、やはりネックは志望理由のストーリーをつくる初期の段階だとようやく気づきました。
よくあるケースを3つほど。


①最初から論点が定まっている高校生
多くは、もう志望校や指導を希望する教員が決まっていて、そこに自分を合わせにいきます。そうなると、どこか発言に強引さが出たり、意固地になったり、逆に「やりたいことがわからない」と言い始めたりします。
こういうときは、一旦志望校等を保留して、もう少し話を聞いて、広めてみたり、探ったりしながら、関心があることをもとにして研究領域の幅を広げてみます。

例えば、あるキャラクターが好きという言葉を聞いたら、そのキャラはこの国発祥だよね、そういえばこの国ではこういう精神療法が生まれた地だね、この国は日中がずっと曇っていたり、ずっと昼間のような感じになったりして、日本人が住んだら厳しそうだけど、そういうことにも対応できるのは何故だろうね、みたいな。

②やりたいことが見つからないという高校生
学部や大学はなんとなく決まってるけれど、どこに興味があるのかが本人も掴めていないというところです。
私はこういうときは、とことん話を聞くことにするのですが、多くの発問は「もっと詳しく教えてくれる?」「そのときどんな気持ちになった?」「もっと話してみて?」と具体を促すことばかりです。
そうすると、さまざまなキーワードを発するので、それと私がもつことばを掛け合わしながら、「こういうことに興味があるように受け取ったのだけれど、ズレはあるかな?」と仮説を相手にぶつけて反応を見ながら補正、ということを繰り返します。

例えば、マーケティングに興味があるという話から、某ウェブのサービスの売れる仕組みが気になったと聞いたとき、私は「そのサービスはスタートアップ企業の話だよね?こういうふうに資金を得て、ビジネスモデルを組んでいるよ。スモールビジネスとは違って、大きなリスクを伴うし、VCはそこを念頭に置いて投資をしているんだよ。こうしたサブスク型とか利用料ビジネスとかに興味あるの?」みたいに話したんです。その時、生徒は「そういう仕組みなんですね!」と興味を示し始めて、では起業家を育てたり、そういう研究ができそうなところを探してみるといいんじゃないのかな、と話してみます。

③興味関心の領域が幅広くて選べない高校生
あれもこれも学びたいと拡散しがちな生徒もいます。
最終的には選択しなければならないのですが、「早く選びなさい」という段階を間違えると迷走するので、タイミングが大事です。
まずは話をある程度広げてもらうところから始めます。
生徒には「大事なことを先に言うケース」と「最後までひた隠しにするケース」がありますが、後者の場合は心の病の話などセンシティブな内容になりがちです。心理や看護、精神医学、教育等に興味を持つ生徒がそういうことになりがちなので、そういう学問領域を提示してきた生徒には慎重に話を聞きます。
ある程度風呂敷を広げてもらったあと、私がもつことばを掛け合わせて、こういうことも考えられるよね、といくつか語ってみて、反応を見ます。

例えば、社会問題について幅広く学びたい、学部は経済か政治、という生徒の場合。
どういう社会問題に関心があるのかを尋ねるところから始めました。
ウクライナ、国連の話をもとに、ネットニュースや新聞報道への信頼性の怪しさを語ってきました。
フェイクニュースが全体の意見を作り出すことの怪しさ、大衆扇動の話をしてきたので、私からは日本のマスメディアの情報源は限られた通信社からのものであること、それが西側陣営にあること、従って東側陣営の論理は見えないこと、だから東側の論理は歴史的な経緯を追うことである程度読み取れることを語りました。
また、プロパガンダはネット全盛期を経て新たな形に変貌していることも伝え、その研究にとても意味を感じると話しました。
本人はその話に自信を得たようで、ウクライナやロシア政治や民衆の研究を追ってみたいと語りました。


このあたり、弊塾のような個別指導の対応だと最初から最後まで個々に対話をするので気づかなかったのですが、集団指導となると日が経つごとにその差が拡大し、それを生徒個人の能力の差であるかのように私自信誤魔化していたのではないかと感じるようになりました。

今回はそのことに気づけたので、黒酢の壺づくり作戦で進めています(わかる人にはわかるだろうなぁ…美味しんぼを知っていると、なるほどと思うかな)。

※ただ、残念ながらマインドが最初から閉じているとか、諸事情で難しい高校生がいることも否めないので、その場合は私のもとで育てることは難しいと判断することもあります。「無関心」という問題は、もしかしたら本人の心の問題でもあるので、素人の私は対処できないことですね…


ある方から「私の指導は『生徒の半歩先を歩んでいる』」と言っていただいたことがあるんです。
「生徒の頭の中でこんがらがっている蜘蛛の糸が、対話の中で解けて、口から糸が出てくる感じ」とも言われました。
伴走は伴走なのだけれど、生徒の先を行って「ついてこい!」というのではなく、一緒に懐中電灯を持って暗闇の中を探って、見つけて、形にして。
生徒のことをトコトン待つ指導だし、だから生徒の可能性を最大限に見出せるのだ、と俯瞰していただいたのです。

私のことばで紡ぐと、おそらくそれが中動態とか協働主観(collaboration-subject)のことだと理解しています。
「あなたの人生なんだから勝手に自分達で決めてよ」と放置することでもなく、だからといって指導者側でストーリーを勝手に作って押し付けるようなこともしません。
この生徒は何を大事にしているんだろうとか、どうありたいと望んでいるのだろうか、とか、内を覗き込むだけでもなく。
この生徒がどういう世界に位置づければ幸せに生きられるのだろうか、世界がこの生徒の存在を意味づけるのだろうか、と色々思いを馳せながら、対話するというのが、私の指導方針なのだな、と改めて感じた次第です。

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