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自分の「聞いて書くルール」について

仕事するときのルールってあるんですか?

そんな質問を(あらたまってではないけど)されるときがある。何となく、話の文脈で「ライターとしてのルール」みたいなのを聞かれてるんだなというのはわかる。

まあ、ルールというほど大げさなものではないかもしれないけど。

もちろん、いくつかある。といってもモニターに貼り付けてあるわけでもなく、そう言えば自分の中にあるよなというもの。その中の一つ。

取材でもなんでもそうだけど、誰かの話を聞かせてもらって文章を書く。すごく大それたというか、おこがましいことをしてるなという感覚はずっとある。いや、わりと真剣にある。

どんな状況でどんな相手と対峙していても、自分には「お前になにがわかる?」が突きつけられてる感覚。そうだと思う。自分自身すらわかってるかどうか怪しいのに「誰か」のことがどうわかるというんだろう。

それでも仕事として話を聞かせてもらって書く。だからこそ「お前になにがわかる」をちゃんと超えないといけない。

そんなのわからないんだからしょうがないじゃんとは思わないし、絶対に分かるとも思わない。

誰かのことなんて簡単にわからないのは大前提。そこはちゃんと見つめる。こっちの描く世界に勝手に寄せて見るのでもなく、わかるという思い込みでもなくそのままを見る感覚。

そんな抽象的なことじゃなく、具体的にどうするのかを聞きたいんだけど。

ですよね。一応、抽象的な概念と具体的な行動は常にセットだと思ってるので書いたということを付け加えておくね。

自分がなにをなぜ大切にしてるかがあって、そこからの行動があるわけだから。概念だけ持ってても仕方ないし、概念のない行動も薄い。

で、誰かの話を聞かせてもらって、理解しようとして、そこで得たものをもとに文章を書くときのルール。

「自分が相手と入れ替われるか」を考える。ちょっと意味わからないって言われそうだけど。

なんだろう。取材して書く側と相手側の二項対立では書けるけど書きたくないと思ってて。相手を最初から「自分と違うもの」として書くほうが簡単だし、一見、わかりやすい構造がつくれる。でも、そういう文章って「超える」のは難しい。

いつも書いてる気がするけど、どうせ(もうこんなに世界に文章があふれてるのに)書くなら、お互いにその話を聞く前、文章を読む前とは違うところに進みたいから。

その人にはその人に見えている世界がある。こっちから見れば「なにそれ」と思うものでも、その人の世界に「存在する」ものならそれをちゃんと見る。たとえ自分の価値観にはないものでも。

そのためには、やっぱり「自分」が邪魔するから、相手と入れ替われるかぐらいの感覚で。極端な話、自分は絶対それをしないをしてる人の話でも、自分もそれをやったとして「ちゃんと」聞くのは書き手の基本。

もちろん、そうやって「自分事」にするのと、それを第三者が「読める文章」にするときのトランスレーションはまた別の次元の話。自分事のままだと、ただの自分語りになる。その話はまたどこかで。

「自分が相手と入れ替われるか」

難しいと思う。僕だってうっかり忘れそうになる。だからクレイトン・クリステンセン教授のこの言葉を自分の中に貼り付けてる。

自分のルールを100%守ることのほうが、98%守るよりも容易い――。