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人が誰もいなくなった世界は孤独なのか問題

ときどき何の脈絡もなく、そんなことをふと考えてしまう。もし、明日起きたとき世界中の人の気配も物音も消えていたらどう感じるのだろうとか。

自分でもよくわからない。こういうのって考えようと思って考えてるわけではないのだけど。

思考実験の類だと思えば、まあそんなに変わったことでもない気もするし、でもそういうのは突然降って来るものなのか。

朝になる。起きた瞬間、何かが変だなというのはわかる。昨日まで自分の周りを漂っていたあらゆる物音、人や他のいきものたちの気配が何もしない。

あ、これは「独り」になるやつだ。これまで概念でしかなかったものが現実になったのだなとぼんやり思う。

さて、どうするか。すべてが消えた世界を瞬間的に諒解してしまっているのだから、どうすることもできないしどうすることもない。

咳をしてもひとり――。尾崎放哉の自由律俳句を一瞬、思い浮かべるけれど、そういう感じでもないなと思って消し去る。

こういうときにやることは決まっている。コーヒーを淹れるのだ。

なぜか水も電力も供給されているので、僕は水を入れてコーヒー豆をひいてコーヒーメーカーをセットする。

システムで動いているインフラは、何らかの障害が起こらない限りしばらくそのまま使えるのだろう。僕は無人になった発電所や給電指令所を思い浮かべる。

僕はコーヒーを飲みながらパソコンを開いてSNSやCNSを見る。あたり前のように、どれもタイムラインの流れは止まっている。更新ゼロになった静かなSNSやCNSの世界。

小林製薬のアニメーション広告だけが僕にたぶん使わない商品を推してくる。ごめん。ブレスケアもともと使わないし、誰もいなくなった世界ではもっと使わないと思うんだ。

何かつぶやいても、note書いても自分の「100%の独り言」として、静止するように漂うネットの世界になっても僕は言葉を発するのだろうか。わからない。

「わからない」とツイートしてみる。

「わからない」がタイムラインに音もなく降り積もる。言葉の雪。永遠に溶けることのない雪。もちろん誰からの反応もなく、ただそこにあり続ける。

これを「孤独」と呼ぶのだろうか。



「すべての悩みは対人関係の悩みである」

アドラー先生はこう言っている。

孤独を感じるのは、あなたがひとりだからではありません。あなたを取り巻く他者、社会、共同体があり、そこから疎外されていると実感するからこそ、孤独なのです。われわれは孤独を感じるのにも、他者を必要とします。『嫌われる勇気』


誰もいないネットは、逆説的に誰かに読まれないことを気にする必要がなくなる。ある意味で純粋なCNSだ。

そこに本当に誰もいない世界では、自分のための言葉しか原理的に存在しなくなる。

もしかしたら、そんな世界を一度でも経験して、そこで「本当の自分の言葉」を確かめてからこの、まだ誰かがいる世界に戻ってきたほうがいいのかも。そんな気もする。